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ストックオプションと分裂症

マルクスが『資本論』を書いて、グレーバーが『負債論』を書いたので、当然そろそろ『ストック・オプション論』も必要だろうと思う。以下はそのうちのほんの片隅の試論である。

『資本論』が労働者の労働生産物からの疎外を言うとき、資本主義において生産手段の所有者と実際に生産を行う労働者との不一致という事態が大きな役回りを担っていた。労働の対象化たる生産物が、資本(家)の価値増殖運動のうちに労働者の手を離れて自立化し、独立した存在として労働者に対して支配力を振るう局面である。

現在の株式会社を取り巻く状況を考えるとき、マルクスの世紀から多少なりともこの辺りの事情に変化が見られる。とりわけ、一般に開かれた株式市場/証券会社を通じて、不特定多数の消費者が小口株主として当の会社の株主になることが一般的になった点は大きい。

そもそも、「会社は株主のもの」と言われることがあるがこれはどういう意味だろう。

大前提として、工作機械やPC、オフィスの建物、備品、データ等の生産手段の所有者は依然として会社(=資本)である。会社法の規定では、株主はあくまで出資先の企業が事業活動を通じて得た利益に対して配当等を受け取る権利を有しているにすぎず、実際に会社の資産そのものを保有しているわけではない。

しかし他方で、株主総会での投票権により経営方針に口を出したりすることを通じてそれらの生産手段を大きく左右する権利が与えられている。過半数を取得した大口株主には実質的にその会社のすべてを支配する力があるといってもぜんぜん言い過ぎではないし、小口の投資家も総会で沢山ツッコミを入れるだけでも、一般に考えられている以上に経営層の思考に影響を及ぼす。

この根幹の構造自体は昔からあまり変わっていないのだが、現代においては株取引を通じた家計資産の形成が一般化してきており、非常に多くの個人投資家が日常的に株取引をしている。ネット証券の普及が個人投資家の増加を後押しし、最近はLINEなんかでも取引ができる。細かいところで言うと単元未満株など少ない投資余力で始められる仕組みがあり、NISA等を含めた税制も整ってきている。上場企業株主のうち、いわゆる浮動株部分の株主構成の多様さは、ひと昔前ではちょっと考えられないほど様変わりしている。

これに関連して最近見られるまた一つの変化として、ストックオプション型報酬(以下、SO)の普及が挙げられる。賃金労働に対しての直接的な給与報酬だけでない報酬形態の多様化トレンドに先鞭をつけるように、上場前のベンチャー企業だけでなく上場企業でもここ数年SO型報酬の導入事例を多く見聞きする機会があった。生株を配るというあまり一般的でない手法もあるが、やはりSOが圧倒的に増えているように見受けられる。

SO型報酬とは株式そのものの付与ではなくて、「ある時点で一定数量の株式をX円で取得できる権利」の付与である。たいていこのX円はかなり安く設定されており、付与されてから数年後に市場価格Y円と比べて大幅に低く取得できるため売却益が出るのである。取得費用は自腹なことも会社負担なこともあり、条件により様々だ。得た株式は売らなくてもよいが、そのまますぐ売ると少なくとも{(Y-X)×株数}円が儲かるという具合。

企業側からするとこれにはかなり色々なメリットがあり、短期的にP/L(損益計算書)に落ちる人件費を圧縮できるとか、採用が捗るだとか、SO配布の条件によっては優秀人材をある程度の期間ロックできるとか、経営/人事/財務などさまざまな面で戦略的なオプションとして機能する。財務会計周りに至っては、特にアメリカを中心に、SOを費用認識しない財務指標を決算資料の前面に出す事が許されている(Non-GAAP基準)ほどである。

SOを受け取る側については、シンプルに夢があるというのに尽きるだろう。現在の企業の給与支払い余力に比して多額の権利を受け取れる、自分の頑張りに比例して業績が上がれば株価が上がり報酬も増える、等々。

ただ、よくよく考えるとこれは驚くべき事である。賃金労働への対価が貨幣でなく「権利」であるとは。無期限に保留され、待望されるものとしてのオプション。これまでの社会では負債が人々を縛り付けて強制労働させていたかもしれないが、これからの社会では実現が延期され続ける権利こそが管理主義の手中へと人々を招き入れるまったく新たな原理なのだ。ただしかし、いま時点ではこの論点には立ち入らず、権利は大抵は実現する権利であり配布される株式であるとしておこう。

SO型報酬が増えていくと、労働者が同時に株主でもあるという構図が多く生まれることになる。従来の従業員持株制度が積み立て貯金のようなオマケ程度のものだったのに対し、SO型報酬は特に上場前~上場直後のベンチャー企業にとってはそれなりの割合を占めることになる。今後、労働者でありながら同時に株主でもあるといった人が、これまでの比ではない規模で生まれてくるだろう。

労働者として労働や商品から疎外されつつ、同時に株主=資本家として労働者を疎外するモノでもある。自身が会社の内部の人間として具体的で現実的な日々の事業運営にコミットしながら、それとまったく同時に、外部の視点でまさにその企業活動の効率性の低さやうだつの上がらない株価を批判することになる。

企業がSOのメリットとして捉えているような従業員のモチベーション向上効果は確かにあるだろう。あるだろうが、それは現実のほんの一面にすぎない。彼らは別の一面―株主の圧倒的外部の視点―がもたらす影響を甘く見ている。自身が業績にコミットしている事業部とは違う部署が大幅に全社利益を食いつぶしているとき、あるいは経営企画部門が主導した大型買収が失敗に終わったとき、株主としてのアナタは「クソが」と呟くだろう。いやまぁ、株主でなくてもクソがとは思うだろうが、自身の経済的利害へ跳ね返ってくるとなると怨嗟の度合いがぜんぜん違ってくる。これは他者への寛容を大きく脅かす問題である。

そしてまた、企業から見ても、不特定多数の小口株主はラカンのいう大文字の〈他者〉を体現したような存在である。そもそも経営者は上場した瞬間から自社の株価を気にし、株主総会での罵倒に怯え、四半期決算で少しでも明るい未来を誇張しようとする。株価が下がりすぎると他社による買収リスクが増すといえど、それだけでは説明しきれない継続的なプレッシャーが上場企業には存在し、"世間の目"としか言いようのないなにかの要請のもと、無数のコンプライアンス要求の充足とリスク回避の努力を重ねる。

ブルシット・ジョブが魑魅魍魎のように湧き出てくるのも、ここからである。誰に向けてのものなのかよくわからない無駄で空疎な仕事が社員たちに覆いかぶさっていく。コーポレートガバナンスコード?なにそれおいしいの?いや絶対に、美味しくないだろう。そしてまた今日も、労働者は労働から疎外されている。

この株主がSOにより増える。それも内部で少なくない発言権を持った多数の社員グループが睨みを効かせる。この不幸な捻じれが企業文化やマネジメントに及ぼす影響は、はたして軽微で無視できるものだろうか。

企業内部の労働者として、SOにより噴出し続ける〈他者〉からなお一層の支配を受けながら、自ら物言わぬ株主として自らの疎外=支配に加担し続ける。この分裂症的な生を、現代の労働者は生きなければならないのかもしれない。いや、そもそもこれは、この事態は、いまだ働く人間としての活動的な生なのだろうか。労働とその成果から疎外され、それだけでなく今や、生産過程それ自体から自ら(の株主的生)が外化され退場しつつあるとするならば、それはひとえに工作機械未満の亡霊のような存在ではあるまいか。


実際には、既存株主への明確なデメリット(既存株式の希薄化=1株あたりの価値低下)が存在するため、SOが従業員への報酬の大半を占めるようなレベルで乱発されることはないはずだ。また所詮はSOの配布対象なんぞ数少ない企業の数少ない社員に限られていて、小口株主にしてもブルジョア≒資本家ゆえ、マルクスが言っていた階級分裂と闘争そのままじゃないか!と言うこともできる。

しかしそうだとしても、この報酬形態の普及は質的に破壊的な変化であり転倒である。視界の隅から消し去ってしまって毎日熟睡、というわけにはいかない。SOの魔の手はゆっくりと、しかし着実にその範囲を広げてきているのである。権利行使価格と市場価格が分裂すればするほどに、労働者の精神は自らの内部で悲惨なまでに破裂してしまう。


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