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変身記念日に、へんしん屋さんと出会った話

『へんしんバイク』というものがある。

4歳になる我が家の娘が、1年ほど前から乗っていた、足で漕ぐペダル部分が付いていない自転車のことだ。それ以外は普通の自転車と全く同じ。

子育てを始めるまではその存在を全く知らなかったんだけれど、最大手メーカーの商品名を用いて「ストライダー」と呼ばれることも多いこの自転車、これがなかなかすごいブツらしい

なんでも、小さな子がこのバイクに乗り始め、ある程度慣れたところでペダルを付けると、あまり練習をしなくとも、そして三輪車など経由しなくとも、普通の自転車にスイスイ乗れるようになるらしい。

自分が小さい頃には、こんなものは間違いなく無かったし、自転車に乗り始めたのも小学校低学年ごろからである。

なので、こんなに小さいうちから?と半信半疑ではあったけれど、色々新しいのが出てくるなーとふむふむ言いながら妻の話を聞いていた。

こうして、ちっさなバイクが、我が家に迎え入れられた。

へんしんバイクの華麗な変身

その後、娘が1ヶ月に1回ぐらい乗りたいというので、その度にペダルなしバイクを引っ張り出してきて、近くの道で練習したりしていた。


1年ほど経ち、それは突然やってきた。

つい先日のこと。自分と妻が乗っている自転車の具合が良くなかったので、自転車屋に修理をお願いしに行こうとしたとき。

「へんしんバイク、そろそろペダル付けてもいいかもな」
妻が呟いた。

おぉ、4歳でもうチャレンジできるのね、と、あまりその辺りの感覚がなかった自分は少しびっくりしたけれど、そんなものかと頷いて、一緒に担いで持っていった。

***

出来上がってきたペダル付きへんしんバイクは、もう完全に大人が乗るような、フル装備の自転車になっていた。3-4歳が乗れるものなので、相変わらずものすご~くちっちゃいんだけど、それでも、りっぱに自転車である。

そのギャップに、妙なチグハグさを覚えながら眺める。ふと横を見ると、グレードアップされて戻ってきた真っ赤なへんしんバイクを、娘はこれまた妙ちくりんな、そしてちょっとだけ誇らしそうな顔でじっと見つめていた。


「練習したい!」と鼻息荒く詰め寄る娘に気圧されて、さっそくその日中に近くの路地で特訓が始まった。

案の定、ぜんぜん乗れない。ペダルなしバージョンとはだいぶ勝手が違うようで、親が後ろからハンドルを抱え込むように押さえていないと、バランスを保てない。

なにやら必死の形相で取り組んでいる風ではあるんだけど、全然まっすぐ進まないし、こちら側の体勢もキツい。こりゃあ時間かかるぞーと、今後の練習の大変さに思いを馳せてちょっとばかり憂鬱になる。

ま、でも。

自分が子供の頃にも、自転車に乗るのにはすっごく苦労した。親が後ろを押さえてて、「絶対離さないで!!」とかいうベタなやりとりをしながら、転びまくってなんとか乗れるようになっていった記憶がある。

なもんで、これから2ヶ月ぐらい、ゆっくりゆっくり練習を重ねながら、そしてたくさん転びながら徐々に乗れるようになっていくんだろうなーと、目を細めてたりしていた。

変身記念日

翌日、家の近くの大きな公園で、再び練習をすることになった。

まずは妻が押さえる番。がっちりハンドルを掴んで小走りで並走していく。

あ、そうだ。写真でも取ろっと。GooglePhoto経由で、遠方で写真を待ち焦がれてるジジババにも、この涙ぐましい努力を共有してやるのである。

写真アプリを立ち上げる。最近、ロック画面からうまく起動しないんだよな。これどうしたもんかな。


突如、寒空の下に響く、妻の叫び声。

「うわーーー!!!乗れてる!!!!」

「え!?!?なにが!?」
スマホから目線を戻した刹那、妻の手を離れて、自力で果敢にペダルを漕いで進んでいる娘の姿が目に入る。

「ええええええええ!マジか!!すごっ!!!ええええ!?」

2ヶ月コースを想定していた自分は完全にパニック状態。

それでも慌ててスマホに目を戻し、写真アプリを瞬時に動画モードに切り替える。この辺は完全に現代人の反射神経である。

1分ほどのあいだ全く足をつけずに漕ぎ続けていく我が子に、ただただ唖然としながら、「え、すごっ・・」と繰り返し呟き続けていた撮影者の声が、動画にしっかりと入っている。

へんしんバイクで、娘が見事に"変身"した瞬間だった。

ここまでちゃんと「まさに今乗れた瞬間」に立ち会えるとは思っていなかったので、とてもびっくりした。

***

親は、常に不安を抱えながら暮らしている。

自分自身、地方の田舎でなんのプレッシャーにも晒されずに伸び伸び育った身として、自分の子供にエリート教育を詰め込もうだとか、何かしら傑物になって欲しいとか、そういった考えは毛頭無い。習い事も押し付けたくない。それは妻も同じだ。ただただ健やかに、のびのびと。

なのだけど、それでもやっぱり、不安はある。

「うまく育てられているだろうか」
「他の子はこれこれがあんなに上手くできてる」
「クラスのあの子はもう習い事をやってるらしい」
etcetc...

導きも答え合わせもない、でも、比較だけはできてしまう世界で、放縦と隣合わせの”自由”を選び取り、与え続けるのには、それなりの胆力がいる。

だからこそ、こういった成長の瞬間に目の前でじかに立ち会えることは、親にとって、とても大きな支えになる。

***

そんなこんなで、今まさに大人への階段を一段登らんとする娘を見て、胸がいっぱいになった。

颯爽と現れた"へんしん"屋さん

しかし。

一人で乗れたといっても、当然ながら完璧ではない。

走り始めが難しい。

一度走り始めるとスイスイ行くんだが、止まってしまうと、これまでどおり親が並走しながら押さないと、うまく乗り始められない模様。慣れない漕ぎ始めに、彼女なりに試行錯誤してるようだったけど、なかなかに苦戦を強いられる。

5回、10回、回数を重ねても、あまり状況は芳しくなく、こちらとしても無意識で出来ていることなのでどう教えて良いかよく分からない。

と、ちょうどその時。遠くの方から一人の若めの男性が駆け寄ってきた。

「ちょっとすいません、僕、へんしんバイクのメーカーで営業やってるんですけど、お子さん、練習中ですか?」

自分・妻「ええ!?ほんとですか・・?あ、、、はい、そうですね。。。ちょうどさっき乗れたところで。」

「おーーそうなんですね!!ちょっと見てたんですけど、スタートのところ苦労してますよね!」

自分・妻「あっそうなんですよ。そこだけ出来ないみたいで。」

「ですよね。そこ、それなりにコツがいるんです。ちょっとやって見せてもいいですか?

ん?やって見せるって、どゆこと?

すると、身長180センチはあろうかという大の大人が、娘のちっちゃい自転車にまたがった足とかもう、ギッチギチである。

自分・妻「(この人、マジかよ・・・)」

引き続き、かたずを飲んで見守る。

「こうやって、まずぽーんと蹴り出して、走り始めて勢いがついてから、それから足をペダルに乗せる。この順番が大事なんです。そうすると上手く行きますよ。お嬢ちゃん、分かる?」

問いかけられたお嬢ちゃん、否、筋金入りの人見知りこと弊娘。

突然現れた"へんしん屋さん"に対して、完全に押し黙りながらも、絞り出すように、なんとかコクリと頷いた。

娘のターン。ペダルに足をかけ、言われた通りにやってみる。

すると、これがなんと一瞬でできる。あんなに苦労していたのが嘘のように、2回めぐらいでスーッと一人で走り始められたのだ。

自分・妻「おおおーすごい!!ありがとうございます!!」

正直、はじめは怪訝な目で見ていた2人だが、そのテクのあまりの即効性に、一瞬にして崇拝の対象となったへんしん屋さん。なんなら、少し後光がさしてきた。


完全に一人で乗れるようになった娘は、冬の公園の真ん中にたたずむ大人3人の周りを、暴走機関車よろしく無限回遊している。

ちなみに、ウチの娘が凄いのではない。聞けば、ペダル無しで慣れている子どもなら、コツさえ掴めば30分程度のクラスでみんなペダル付きに乗れるようになるらしい。このバイク、ものすごいイノベーションだったのだ。

そしてこの人、本物のへんしん屋さんだったのだ。

"へんしん"への想い

その後、へんしん屋さんは、色々なことを話してくれた。

営業マンをしながら、自転車の乗り方教室の講師もやっていること。
競合大手ほど広告予算が無くて、乗り方教室とか口コミで頑張ってること。公園でへんしんバイクの子を見かけると、乗り方を教える傍ら、親御さんにヒアリングしたりしていること。

大学では子どもの発育の研究をしてたこと。
保育士になりたかったけど、なれなかったこと。
自転車に乗れるようになる瞬間は、数少ない、親が直接目撃できる成長の瞬間だということ。
それをサポートし、一緒に立ち会えるこの仕事が、何より好きだということ。

もしかしたら、100%の営業トークだったかもしれない。自転車教室やってるんで、良ければどうぞ、と名刺ももらった。

でも、そんな想いを蕩々と語る彼の目に、「子どもと親たちのヒーロー」としての魂と熱い想いを、自分はたしかにそこに見たのだ。

ヒーローは、こんなところにいたんだ。

15分ほど立ち話をしてただろうか。
「ベルがボロボロだったので、連絡頂けたら新品お送りしますね!」
へんしん屋さんはそう言って手を振りながら去っていった。


ふと我が子の方に目を移す。

淡い朱色に包まれながら暮れていく西の空をバックに、乗れたてホヤホヤの娘が必死にペダルを漕いでいる。

まだまだ小さい。なにせ4歳である。フラッフラのヨロッヨロ、である。

それでも、いつもより少しだけ、でも確実に大人びた顔をして前を向く娘を見ながら、なにがしか込み上げるものがあった。

そして、「あぁ、ちゃんと育ったんだなぁ」と噛みしめる。

子どもが育つ、その希望

子育てをしていると、よくこう思うのだ。子どもは希望だ、と。

その小さな身体の中に抱え切れないほどのエネルギーをいっぱいに抱え、それを瞬間瞬間に爆発させながら、いまその時を全力で生きている。

人が育つということが、そこまで自明なことでも、かんたんなことでもないということを、自分はわりと長めのマネージャー経験を通して知っている。

マネージャーとして人や組織と向き合うとき、人を信じる、それも盲目的に信じることはとても大事だ。たとえ組織上のいっときの所属関係に過ぎなくとも、いつも部下の人生を背負う覚悟で接するのがマネジメントの掟だと思っているが、そうは言っても、難しい場面も多くある。期待してた通りにいかなかったり、ちゃんと信じきれなかったり。自分が逃げたいときも、手を抜くときもある。詰まるところ、社会や組織の中で生きるということは、自他の”弱さ”と向き合うことだ。盲目的に信じながらも弱さを認めるこの矛盾、この対立と向き合う覚悟が、他者とともに生きるということなのだと思う。

そうした日々を送っていると、訪れる毎日を細大漏らさず全力で生き切っている子ども達は、とても輝いて見える。その救いようのない弱さに全く引け目を感じている様子はなく、そして自身の前途に不安を抱いている気配も全く無い。そんなのを眺めながら、親の自分がいつの間にかどこかに置き忘れてしまったものを惜しむような気持ちになることもあれば、そこに明日への希望を見出すこともある。

思えば、「人は必ず育つ」というテーゼは、社会に深く内蔵されたテーゼだ。我々が生きる土台としてこのことを無意識的に信じ、他者との相互交流においてもそれを念頭に置き続けるからこそ、社会はうまく回っていて、前向きに明日の仕事が作られ続ける。

そしてその信念は、「子どもは育つ」という事実に支えられ、ひそかに社会に織り込まれ、根を張っているのだ。日々、全国の彼ら彼女らがすくすくと育っていくことによって強化され、拡大再生産される、それは社会的な"信仰"でもある。娘が生まれてこの方、そのことに日々、気づかされ続けている。

***

娘はこの週末も、自転車の練習をすると言う。先週末も、張り切って一人で乗っていた。「お父さんもう掴まなくていいの!」と怒られる。まだまだ危なっかしいんだけどなぁ。

まぁでも、自分でペダルを漕げるようになると、そもそももう追いつけない。ついこの間まで頑張って並走していたのに、いまはその小さな背中を見守るしかことしかできないのだ。

大人たちを後方に置き捨て、進行方向をまっすぐに決然と睨み、広大に開けた自分一人だけの荒野をヨロヨロと疾走する我が子を、父は妙ちくりんな、そして随分と誇らしげな顔で、じっと見つめていたのであった。

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