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差異と共生の認識論~『多文化主義とは何か』センブリーニ

多文化主義とは、異なる民族集団が持つ文化や風習、価値体系を等しく尊重し、社会の中で共生を図る考え方を指す。

20世紀後半に出現した概念で、カナダやオーストラリア、アメリカなどを中心に、現に目の前にある社会問題と密着する形で議論が発展してきた。古くからの問題としての帝国主義的な異文化の同化政策に対して、あるいは新しい問題としての人種のサラダボウル的な移民の混合状況に対応して、政策展開を含むさまざまな運動が多文化主義の旗印のもとに起こっている。


しかし、既に社会に根差しているかに見えるこの思想を取り巻く状況と認識は錯綜している。悪しき相対主義への転落、国民国家の枠組みにおける主流文化と周縁文化の埋まらない溝、移民増加による治安悪化への根強い批判、共生に向けた具体的で開かれた対話の仕組みの不在、などなど。こうした問題を前に、特に欧州において、いっとき多文化主義を掲げてきた国々が立て続けに文化統合へと回帰しているという現状がある。

本書は多文化主義に様々な角度から光を当て、この概念に歴史・文化的な考察を加えていくことで、社会的実践を巡る錯綜した議論を紐解いていく。

ことさら優れている点は、著者が単に社会に表面化しているリアルな問題系のうちにのみ多文化主義を位置付けたり足早に改善策を書き綴ったりするのでなく、どのような精神史的背景がこの思想を生んだのかという次元に根を張った議論を展開し、理念と実践の双方を行き来しながら問題とありうる出口を模索していくところである。


特に、多文化主義を20世紀初頭の認識論的転回から構造主義の差異の問題、その後のポストモダンへと連なる一連の思想状況と結び合わせて捉える点は見事である。

それ以前において世界を基礎づけるものと考えられていた普遍は、20世紀に至り差異へとその座を譲った。フッサールは客観世界を意味の”現象”する世界へと変え、ことばはソシュールの手によって普遍文法から差異の体系へと変貌を遂げる。人類学者たちの興味深い調査の数々に、構造主義の陣営が列をなす。実証主義や合理主義、決定論が批判的に見直され、社会現象や文化の固有性=特殊性が叫ばれる。

共通するのは、素朴な合理主義・経験主義や外的世界の表象理論、あるいは真理対応説の拒絶である。

帰結するのは、異なる文化の間に無意識的に序列を付けて”正しい”文化の側が支配と差別を遂行することへの拒絶である。

こうした潮流を「多文化的認識論」とくくりながら、著者はその内実を特徴付けていく。


・現実とは構築されたものである
・解釈とは主観的なものである
・価値や真理は相対的なものである
・知とは政治的な事象である

これらが具体的な共生のあり方の次元で展開されたものが、例えば社会構成主義あたりであるだろう。この世界の様々な事実は人々のあいだの社会的な関係において生み出されるものであり、その外部に絶対的普遍的な客観的事実が存在することは徹底して否認されるのである。


20世紀終盤の西洋列強の植民地体制ー西洋中心の国民国家形成というプロジェクトーの崩壊と機を一にして多文化主義が産声を上げたこと、それも新大陸や被支配側であった多民族国家において生まれたことには、それなりの理由があるのである。

個別的状況の違いを除けば、多文化主義がすべての現代社会に突きつけている基本的問題は一つだけ、すなわち近代性〔モダニティ〕の問題である。差異と同一性、平等と正義、相対主義と普遍主義、合理主義と主観性、市民性、倫理、法、これらのものは、われわれになじみ深いものだ。近代的投企〔プロジェクト〕の分類そのものが、全般的に見直されようとしている。社会的政治的挑戦、論理的哲学的挑戦を超えて、われわれに多文化主義が突きつけるのは、まさに文明の挑戦なのである。
p. 170

何を置いてもまず現実の社会問題であるものが、これだけ大きなストロークで語られるのは、多文化主義の問題がポストモダンの問題のそのまんま具体的表出だからなのである。その意味で、著者が本書で真に問うているのは、近代性といまだ向き合い続けざるを得ないわれわれにとって「ポストモダンとは何か」ということだろう。


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