見出し画像

'21.05.15雑記:痛む身体と「わたし」のリアリティ

これの続き。

われわれの身体は、機能の集合として管理されている。部分部分が理想的な働きをすることをつねに社会から要請されていて、そしてそれゆえ、つねにあちこちに欠損を抱えている。

「理想的な諸機能の集合としての人間」というのは、幾何平均みたいな論理的構成物であって、この世界のなかに実在する事柄とは本来なんの関連も持たない。日本人の平均身長とか平均体重みたいなもので、実際に平均的要件をすべて備えた理想的人間が存在しているわけではない。

それでも、そんな理想を大いに希求し、「足りないことだらけ」のボロボロの身体を引きずりながら、どことない不満足の空気をつねにまとって社会的生を生きるしかない。これが近代以降の人間像なんじゃないかと思う。

医学の発達は、かつては治癒が困難だった多くの疾病に救いの光を投げかけるけれど、それはまたわれわれのもとに新たな欠損を多く運んでくることと表裏一体でもある。


遊離してしまった身体の断片と、「わたし」の精神を結び直すことは可能だろうか。

ここ最近、さまざまな形で医療を受け、再三襲ってくる痛みに耐えながら、そんなことを考えていた。


「痛み」というのは不思議な現象である。

純粋な生理的反応のように見えて、しかし意識の状態と密接に関わっている。五感ほど移ろいやすくも外的対象に依存してもいないけれど、痛みの”認知”の仕方によっていかようにでも変わりうる。気にしないこともできるし、紛らわすこともできるけど、存在しないと言うと嘘になる。薬で散らすこともできるが、実際に感じている痛みが誤謬であるということはほとんどない(五感が欺かれうるのに比して、そもそも語用論的に不可能であるに近いという点は面白い)。痛みの質・量を日常言語で適切に言い表すことは難しく、ほとんどの場合他人に伝えることもかなわないごく私的な体験に属する。進化論の嚆矢であるハーバート・スペンサーが痛みを生物種の生存確率向上のために備わった機能―回避すべき対象・行為のアンカリング機能―と位置づけたとしても、人間にとっての痛みの私秘性はなんら変わらない。

また、痛みの所在ははっきりしない。五感の知覚においては、反応と対応する刺激の入力場所が必然的に存在するが、痛みは必ずしもそれを必要としない。神経科学の臨床でよく知られている例では、腕を切断した患者の多くが、もうないはずの手先に痛みを経験する(幻肢痛)。

このような主観的で経験的な痛みの存在と性質は、近代以降の医学においてはほとんど無視されてきたか、回避すべき対象とみなされてきた。身体として取り出されたものの残滓として、あるいは神経系における特定の刺激-反応と相関のあるものとして捉えられもするが、その豊穣なあり方や意識との連関については、いまだ手つかずに放置されている。


ただ、意識における痛みというものは重要である。なぜなら、痛みを感じるのは、つねにこの「わたし」だからだ。

「足の指を怪我した」というとき、それは”もはや”社会的事実に関する言明であって、わたしにとっての主観的なことがらではない(純粋に客観的なことがらでもない)。労働力としての人間、科学的管理法のもとにある人間は、社会システム全体の中の一つの機能の欠損シグナルとして表現されるしかない。そこには個人名は無く、体験の持つ豊かな質的側面も無い。

ゆえに怪我や病気はすでに、資本家によってなされる行為であると言える。外的な標準に応じた機能の欠損によって定義され、社会関係の網目のなかで管理・治癒されるもの。現代では、誰かの怪我が他の誰かに影響を与えないことはなく、誰かの病気は瞬時に労働力の代替可能性の評価にさらされる。じつのところ、我々はすでに、自分一人では怪我や病気ができなくなっているのではないか。社会との関係抜きで、自らに対して純粋に経験的な形では怪我や病気を”享受”することは、今となっては贅沢品なのかもしれない。

他方、「足の指が痛い」というとき、それは「一」なる私自身が痛みを感じていることを表している。痛いのは足の指ではなく、常にわたしである。

痛みという主観的事象は、同時にその事象の前提となる「わたし」の存在を暗示している。そして当然ながら、この「わたし」が基礎づけられるより前に「足の指が痛い」という事実は存在しえず、痛みは対象としての身体をも生み出していく。対象的なものとしては思惟しえない「わたし」の無規定性は、そのまま「存在そのもの」とつながってもいる。

痛みは、その奥底に直観される超越的な存在の痕跡であって、そこから生み出される自分自身が主観的に痛んでいるからこそ、そこで初めて身体が現れてくる。対象化しえないが極めて実在的で切迫したもの、それ以前の場所で主客を生み出すものが「痛み」であるのではないか


社会の中で無視されるこの痛みの経験は、しかし自らが実際に個人として生きているという事実と密接に関わっている。必死に働き、身体を切り刻んでいくことではトータルな自分になれないが、そこで得た「痛み」は、本来自分自身であったものへの直観の通路を開いてくれる。

単なる知覚や情動、そして実存主義における死への感覚などが、バーチャルなもの、フィクショナルなものとして簡単に消費されてしまう時代にあっても、痛みのリアリティは消えない



痛いのは嫌いだ。

でも、「痛み」を自らの実存に引き受けて、痛みとともに自分の身体をまるごと抱きしめるのが、機能的連関の網目を抜け出て人生を生きることそのものであるという感じが、今はしている。


おわり

頂いたサポートは、今後紹介する本の購入代金と、記事作成のやる気のガソリンとして使わせていただきます。