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意識の煌めき-ベルクソン『精神のエネルギー』

(原章二訳,平凡社ライブラリー)

流暢な美文とほとばしる叡智に感服する。とくにベルクソンの思想の前半部分についてのまとめの書だが、平易な表現の一つ一つの部分のうちに、かの壮大な思想の全体が反映している。

一応それぞれが独立した論文や講演録ではあるが、前期の主著『意識に直接与えられているものについての試論』『物質と記憶』など本書刊行以前の主著同士を説明し直し、相互に関連づけ、重要な付言を多く残している。平易なことばで書かれているためサクサク読めるが、提示されるものの大きさに、いっさい気が抜けない。

とくに、キータームである「純粋持続」について多面的に理解するのに格好の一冊である。初期の数論/空間論や物質的側面からではなく、まさに”精神的なもの”―おもに<意識>ではあるが、その意味するところは広大で、ベルクソンにあっては心霊現象すら人間意識に帰せられる―について語ることを通じて、その運動性・能動性の側面から質的で純粋持続的な生の側面を紐解いていく。

精神病理学・神経心理学の専門的見地が色濃く出ている章も多く、人間の「記憶」「想起」「再認(デジャヴ)」にまつわる具体的な臨床的分析が、潜在的に相互浸透しゆく意識の概念を準備していく様子が克明に見て取れる。

ベルクソンは、「意識と脳は平行関係にあるのか?」という伝統的な心身問題(の変種)に対して、精神病理学の事例などに基づいて鮮やかな解決策を提示した。いわく、脳は意識の制御器官ではあっても、意識を”生み出す”器官ではない。意識は権利上(この"権利の上では"という考え方が、ベルクソン哲学の凄みなのだ)、夜空の星々にまで届くが、それを実生活への必要から身体とその周囲に”制限”し、差し向けるのが脳である、と。そうしたことを、その比類ない文才を遺憾なく発揮し、こう綴る。

衣服はそれが掛けてある釘とつながっています。釘を抜けば衣服は落ちます。釘が動けば衣服は揺れ、釘の頭が尖りすぎていれば衣服に穴があいて破れます。だからといって、釘のすべての細部が衣服の細部に対応しているとは言えず、釘が衣服に等しいとも言えません。ましてや、釘と衣服が同じものであるということにはなりません。

ここで、衣服は意識を、釘は物質/身体としての脳を指す。この秀逸な小段落のなかに、彼一流の思想の方法と叙述の技量のすべてが凝縮されている。


そうそう、方法といえば、興味深いのは、”哲学の方法”について多くを語らないベルクソンが、1章「意識と生命」において、珍しくそれを語っている。

「私たちはどこから来たのか。何者なのか。どこへ行くのか。」死活の問題とはこれであり、体系に頼らず哲学するとき、直ちにここに向かう

そして、あまりにも体系的な哲学は、大きな概念同士の幾何学的演算によってなにものかが説明できると思っているが、実際はそうではない。そんな原理は存在せず、あくまで手元の事実・経験のさまざまな領域にさまざまな事実の小規模なグループがあり、それぞれがたんに認識の”方向性”を示唆している。そうした方向性がいつか同じ一点に集中していくまで、それらを仮説的に伸ばしながら、常に時代をも超えた思想家同士の共同の努力による更新を待つべき、とベルクソンはいう。「単独の思想家の体系的な作品でなく、実証科学同様に進歩していく精神」を頼みに、たとえ小さな一歩でも実際に「出発して歩くこと」のみが、「どこまで行けるかを知れる唯一の方法」である、と。実証的形而上学が、ここに示される。

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中期の中核書『創造的進化』において語られる生命の跳躍<エラン=ヴィタール>については、構想の全体までは未だ語られないが、その萌芽と成熟過程が強く感じられた。本書は、彼の思想が個々の主体にとっての意識の問題から、「巨大な流れが物質を横切って」いく宇宙の全体としての意識に向けて飛躍するまさに離陸地点に存する。

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本書は、前述通りベルクソン前期思想の総まとめと言ってよい本である。すぐれた入門書であり、またベルクソン理解を立体的なものにするための概説書でもある。そうではあるのだけれど、先に語ったようにそれだけには全く留まらず、その天才的思想の煌めきや方法論的断面について、多くの豊かな実りを読者にもたらしてくれる。

全体を通して、常にハンマーで頭を殴られ続けたような読書体験だった。

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