#遍路07 曇った眼鏡を磨く。住職が教えてくれた執着を手放す方法。
「アイス食べるかい?」
お遍路さんの道中では、有名な88箇所の寺院以外にも多数のお寺がある。
重たい荷物を背負い、何十キロメートルという単位で歩く遍路旅において、荷物を下ろして休めるこのようなお寺は砂漠の中のオアシスに等しい。
お参りを済ませて休んでいると、住職さんが声をかけてくれた。
「アイス食べるかい?」
オアシスのお釈迦さまからのご提案。ありがたく頂戴し、直射日光で火照った体を冷やすことにした。
ぼくにアイスを渡した後、住職さんは建物の奥にある小さな滝の前へ移動し、読経し始めた。
アイスをかじりながら読経に耳を傾けていると、背の高い外国人がひとり、お寺に入ってきた。鳥居をくぐり、ぼくの方に向かってくる。
「あちらに行っても大丈夫ですか?」
「アイドントノウ…メイビー、イエス」
英語で質問されたので適当に英語で答えたが、回答の内容も適当になってしまった。
本当はダメなのに彼だけ行って怒られては申し訳ないので、読経する住職さんの近くへ一緒に向かう。
住職さんは僕達が近くに来たことに気付いていそうだったが、構うことなく読経を続けた。どうやら怒られることはなさそうだ。セーフ。
せっかくきたので、外国人の彼と、お経が終わるまで15分ほどの間、目を閉じ耳を澄ませた。
「どこから来たんですか?」
読経が終わったタイミングで彼に尋ねてみる。
「ドイツです」
オランダ、ノルウェー、フランス、この旅で出会ってきた外国人は、ヨーロッパの人が多い。
1番寺院からお寺を回っているわけではなく、時に公共交通機関を利用したり、ヒッチハイクしながら四国を旅しているという。
「いつまで旅する予定なんですか?」
「No plan」
彼はそう答えると、リュックからみかんを取り出して食べ始めた。
勝手な印象だが、四国でお遍路さんをしている人は、自分の人生を主体的に生きている人が多いように思う。
海外の人はとくにその印象を受けるが、日本人でも同じように感じる。
『時間をどう使うかは自分が決めることだ』
旅する人々の発言や行動からは、そのような意思が伝わってくる。
なにか迷いが出たときは、思い切って日常を飛び出し、旅に出るといいかもしれない。
日常から離れること、また、同じように旅をする人と交流することで、忘れかけていた大事なことを思い出すきっかけをもらえると思う。
なんなら近くのゲストハウスに一泊するだけでもいい。定期的に非日常をとり入れてみるようにしよう。
みかんを食べおわって、長椅子の上にゴロンと横になる彼をみながらそう思った。
ーーー ✂︎ ーーー
『人生相談無料』
賽銭箱の横には、このような掲示があった。せっかくなので、「執着の手放し方」について、住職さんに相談してみることにした。
「『すべき』という言葉に縛られながら生きている感覚が強いです。
旅をしながら考えていると、貯金、お金、仕事、立場、世間からの評価、いろんなものへの執着が強いことが原因のように思えます。
どのようにすれば、この執着を手放すことができるのでしょうか?」
このように質問すると、住職さんはこう答えてくれた。
執着にはいい執着と悪い執着がある。
経済が発展してきたのは、人々がよりよい生活に執着をしたからこそだといえる。
また、仕事でもっと上にいきたい、という執着が人を成長させてくれる側面もある。
逆に、別れた恋人に強く執着すると、よくない結果を生んだりもする。お金に対する執着もそう。
執着は、あって普通。
ただし、強すぎると良くないので、1日のうちで少しの時間だけでも瞑想や坐禅を取り入れ、1日の終わりには反省を行い、感謝をする。
そうやって少しずつ手放していく。
それは、曇ったメガネを磨く作業に似ている。
坐禅、瞑想、反省、感謝といった行いは、心の眼鏡を磨くことができる。
そうした行いを継続すると、曇りのない状態で世界を見ることができるようになる。
・・・住職さんは、このように話してくれた。
心の眼鏡を磨く、か。
ぼくの眼鏡は、頑固な油汚れでベタベタに汚れてしまっていそうだ。
先日あった韓国の青年も教えてくれたが、少しずつでも坐禅や瞑想を取り入れてみることにする。
そうやって少しずつ、「すべき」から「したい」に気持ちを切り替えて、行動を変えていけたらいいな。
「bye bye」
ドイツ人の彼に別れを告げ、ぼくはお寺を後にした。
住職さんと話をした2-3日後、これまで何度か話に出てきた例のイケオジと再会し、一緒にランチを取ったのだが、住職さんとの話を伝えるとイケオジはこう呟いた。
「経済が発展して、果たしてどれくらいの人たちが幸せになれたんだろうね」
・・・ふむ。
経済の発展は確かに人々の生活を便利にしてくれたが、その裏で多くの苦しみを生み出しているのもまた事実だ。
「すべき」という感覚の一部は、経済発展から生まれたものかもしれない。
人と話していると、世の中をいろんな視点で眺めることができて面白い。
それぞれの眼鏡を通してみた世界が、それぞれのあり方をしている。
自分ひとりでは、ピントがずれていることに気がつけないのかもしれない。
自分の眼鏡を磨きつつ、眼鏡が映す世界をアップデートするため、人とコミュニケーションすることも大切なんだろうな、きっと。
そんなことを考えていたが、本場高知のカツオの藁焼きを食べていたら旨すぎてどうでもよくなった。
人生ゆるくでいい。
それも今回の旅で学んだことだ。
p.s
今日もここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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