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《司会、入ります!》 第2話

   司会、入ります! 《第2話》


 いま、松乃美咲は立たされている。煙草を前歯に挟んだ、女性の前に。
 とは言っても、くわえ煙草に火はついてない。
 コピー紙にプリントされた禁煙マークが、彼女のデスクの真横の壁に五枚連続で貼られているのは、ユーモアか皮肉か、誰かの抗議活動か。それとも彼女の自戒の念か。
 紹介されなくてもわかった。この人が七実《ななみ》チカだ。
「あなたが松乃美咲《まつの みさき》さん? あたしは、このMCスピカの……」
「大雑把で大酒呑みのマネージャー、七実チカ。三十三歳」
「ちょっと、泉! そのテンプレはヤメてっつーの!」
 自己紹介を横から浚った在原《ありわら》に、チカが牙を剥く。煙草は口から落ちるより先に、Vの字に立てたチカの左手がキャッチした。
「もっとも正確かつスピーディーに伝わる紹介といえば、コレでしょ」
「もー、勘弁してよぉ。それ完ッ全に印象操作の、営業妨害だから!」
 そう言って眉間に深いシワを刻み、チカが再び煙草のフィルターを前歯で噛む。漫才のように軽快なやりとりが、仲睦まじくて微笑ましい。思わず目尻が下がってしまう。
 なぜならここへ来る前に、在原はチカのことを褒めちぎっていた。チカを心から信頼しているのが、その語感や声の抑揚から、容易に察することができた。
 だからすぐに理解した。本人の前で褒めないのは、照れ隠しであり安心の証。マネージャーと司会者の仲の良さは、社内環境がいい証拠……だと思う、けど……。「こちらが、御社のオフィスですか?」
「そうよ。なんか文句ある?」
 ジロッとチカに睨まれて、美咲は慌てて首をブンブン横に振った。
 築年数を訊ねるのも恐ろしい外観の、赤坂のマンション。そのギシギシと異様な音がするエレベーターに揺られたときから、ある程度の予測と覚悟は出来ていた。
 しかし、いざオフィスの中へ通されてみれば、美咲を迎えてくれたのは、予想を上回る昭和感だった。ウィスカーパッド似の口元が、ぽやーんと力なく開くくらいには驚いた。
 赤坂という立地の高級イメージを大きく覆す老朽マンションの301号室、司会派遣会社「MCスピカ」のオフィスの間取りは2DK……とは名ばかりで、物置と化した四畳に、キッチンつきの六畳一間という狭さだったのだ。
 天井は低く、足元はスモーキーなパンチカーペット……たぶん色褪せてしまっただけで、元は綺麗なピンク色かエンジ色だった可能性が高い。そして妙なサイズ感で壁から少しはみだしているドアの奥には、恐らくユニットバス。後付けなのは一目瞭然。
 壁のエアコンの吹きだし口には、茶色いガムテープがミッフィーの口のごとく、バッテンに貼られている。数カ月後には夏がやってくるけれど、そのときあのバッテンは剥がされるのか、それとも口を封じられたままなのか。朧気な不安が脳裡をちらつく。
 これだけで充分衝撃的だが、この狭い空間にパソコンが三台置かれた大きなデスクと、プリンターを二台積んだステンレスの可動式ラックが幅を利かせている圧迫感には恐怖を覚える。さらには衣類がみっちりぶら下がった業務用パイプハンガーが、一升瓶とペットボトルしか並んでいない簡易キッチンの前を塞いでいるのも豪快だ。
 公私が混在したカオスな光景に、ちょっとだけ目眩がした。
「美咲ちゃん。あなたいま、フローラルのオフィスと比較したでしょ」
「いいいい、いえ、決して。そんな」
「いーや、した。絶対した!」
「しししし、してませんっ!」
「司会者の心得、ひとーつ! 動揺を見破られるな、それがプロ!」
 言ってみ! とチカに顎をしゃくられ、美咲は素直に「動揺を、見破られるな、それがプロ」と五・七・五のリズムで復唱した。
 在原がプッと噴きだし、とってつけたような咳ばらいで誤魔化した……ことよりも。
 司会者の、心得?
 自分の置かれている状況が、いまひとつよくわからない。
 どういうことですか? と訊きたいけれど、その「どういうこと」が具体的になにを指すのか自分でも不明だから、質問を躊躇してしまう。
 戸惑う美咲に構わず、チカが話をトントン前へ進めていく。
「あたしの目から見て、ルックスは平均。可もなく不可もなく。例えるなら、瞳はアザラシ、口元は猫」
「すごい……。それ、よく言われます」
「すごいのは、それにしか見えないあなたでしょ。それと……」
「それと?」
 またなにか叱られるのかと思って怖々訊くと、チカさんがニッと歯を見せた。「よく言われるってことは、話しかけやすい雰囲気ってこと。そこ、自信持って」
「あ……、ありがとうございます!」
「褒めたのは半分だけね。あと半分は、騙されやすそうなタイプだなーって呆れてる」
「はぁ……」
 上げられたり下げられたり、忙しくて目が回る。
 四月なのに早々とタンクトップとショートデニムで真夏感満載のチカが、イスの上で右脚を曲げて抱えこんだ。膝頭に顎を載せ、くいくいと指を曲げて美咲を呼ぶ。
 釣り糸で引っぱられるかのように、美咲はチカの目の高さまで身を屈めた。イーッてしてみ、と請われるままに歯を見せたら、ヨシと頷かれた。どうやら歯並びの確認らしい。
 そして顎に手を添えられ、横やら上やら斜めやらを向かされたあと、チカから一冊のファイルを渡された。
「このページ、読んで」
 ここ、とチカが指したのは、北原白秋の「アメンボの歌」。
 これは得意だ。司会育成講座で毎回唱えていたから暗唱できる。
 美咲は上体を起こして背筋を伸ばし、口をしっかり開け、丁寧な発声を心がけて、一音ずつ声にした。
「あめんぼ赤いな、あいうえお、浮きもに小エビも泳いでる。柿の木栗の木、かきくけこ、きつつきコツコツ枯れけやき……」
 わ行まで通して唱えると、チカが苦渋の表情でウーンと唸った。
 ……なんだろう。なにが引っかかるのだろう。自分では結構うまく言えたと思ったからこそ、不安が募る。
 賛同が欲しくて在原に目で縋れば、こちらはチカ以上に険しい顔で目を閉じて壁にもたれ、腕組みしたまま動かない。
「どうよ、泉」
「……そうね。滑舌と発音は改良の余地ありだけど、声質は悪くないと思う」
 美咲は少なからずショックを受けた。なぜなら自分では、滑舌はいいほうだと思っていたから。
 まさかの「改良の余地あり」コメントに言葉を失っていたら、「いちいち感情を顔に出しなさんな」と、チカに苦笑いされてしまった。このマネージャー、鋭すぎる、もしくは美咲が見抜かれやすいのか。
「滑舌は、訓練次第で上達するから。でも声質は、素質が大きくモノを言う。素質がいいって褒めてるんだから、落ちこまないの」
「はぁ……」
「ま、泉っちが連れてきたってことで、2ポイントおまけかな。で、美咲ちゃん。あなた、フローラルにいたんだって?」
「はい、フローラルです」
「フローラルの、誰に教わったの?」
「五十風サオリ先生です」
「ゲッ!」
 ガマガエルのような声がして、美咲は反射的に振り返った。
 ゲッて言ったのは、なんと在原。在原泉が、ゲッて言った! ゲッて言ってからチッて舌打ちして、歌舞伎の……ほら連獅子の、赤と白の髪をぐるんぐるん回すアレみたいに一回大きく頭を振って、両脚を踏んばって仁王立ちになった! サマになりすぎて怖い!
 うーわぁー……とチカが単調なトーンで驚きと茫然を見事に表現し、天を仰ぐ。「よりによって、サオリかぁー」
「よりによって……?」
「そ。泉とあたしの、最凶にして最悪のライバル」
「え……っ」
 敵ってことですか? と、声にする度胸がなくて目で訊いたら、「うんざり」を絵に描いたような顔で、ふたりが大きく頷いた。

 大手のホテルは、複数の司会者派遣会社と契約していることが多い。
 そして昨今のウェディングシーンは、不況や少子化の影響を強く受け、大規模な披露宴は避けられる傾向にある。
 そのため、ごく少数の枠を同業他社で奪いあっているのが現状だ……というのは、司会派遣会社MCスピカのマネージャー・七実チカの弁。
「フローラルはね、うちのタレントだった五十風サオリ四十一歳が、二年前に立ちあげた会社なの」
「そ。五十風サオリ四十一歳が、このスピカの働き盛りの、二十代後半から三十代前半の若手を五人も引き抜いて出ていったどころか、長年契約していたホテルやサロンに、スピカより安く司会を入れるからって持ちかけて、依頼を根こそぎ横取りしたわけよ」
「四十二歳の在原泉は、声もかからなかったよね」
 口を滑らせたチカに、「うるさいっ!」と泉が目を吊りあげる。
 ふたりの会話を聞きながら、美咲は平常心を堅持しようと頑張った……が、頬の引きつりは隠せなかった。
 三十五、六歳じゃなくて、四十二歳だったとは。
 美咲のひとまわり上だったとは。だったとは。だったとは……、ったとは、たとは……とは……。セルフでエコー。
「なに、その魚眼レンズみたいな目は」
 ジロリと在原に睨まれて、美咲は反射的に背筋を伸ばした。
「いえ、えっと……、あっ……とっ、とと、とってもお若く見えるなーと」
「なにそれ。暗に、おばちゃんって言いたいわけ?」
 あ? と顎をしゃくって問いただす迫力は、たしかに「ひとまわり上」の貫禄だ。
「言っとくけど私に声がかからなかった理由は、年齢じゃないからね」
 在原の開き直りに、チカがブッと噴きだした。
「わかってるって。誘ったところで靡かないし、声をかけた時点で阻止される。阻止どころか、独立計画を潰される。泉の実力を心底恐れていたからね、ヤツは」
「サオリが恐れていたのは、あんたの『人を見る目』でしょうが。サオリのフリートークには愛がない、テンプレで成長がない……って。だから逃げたのよ、アイツは」
「だって、ほんとに愛がなかったんだもーん。どの寿《ことぶき》に対しても同じコメントでさ。流れ作業の、こなし仕事で司会やってる人のために仕事のスケジュールを組んであげるほど、私、優しいマネージャーじゃないもーん」
「……ま、だから現在のスピカは精鋭ぞろいってわけなのよね。チカのおかげで」
 チカの肩をポンと叩く在原の手の優しさに、ともに戦場をくぐり抜けてきた同志の、太く輝く絆が見えた。事情もよく知らない美咲でも、じわりと胸が熱くなる。
 しみじみとした雰囲気が照れくさかったのか、でね、と在原が話を戻した。
「サオリがしでかしたのは、メンバーを引き抜いて独立しただけじゃないの。問題は、そのあとなのよ」
「そ。人員激減で、スピカはまもなく潰れますーって適当な噂を業界に吹聴してくれちゃったわけ。だからあたしたちぃ、潰れる前に逃げたんですぅーって、体クネクネさせて、そこら中のホテルの支配人に泣きついちゃってさ」
 気持ち悪〜と肩を抱いて震えてみせるチカに、「見てきたように言わないの」と、在原が注意する。だって想像できるんだもーん、とチカが口を尖らせる。
「だってさ、泉。いままでせっせとホテルの宴会に足を運んで、みんなのプロフィールカードとか撒いて、地道に畑を耕してきたあたしにしてみれば、恩を仇で返されたわけだからね? 潰れそうなのはスピカじゃなくて、このマンションだっつーの」
 がはは! と爆笑するチカに、笑いごとじゃない! と在原が突っこむ。
 このふたりの会話って、漫才みたいにテンポがいい。内容だけで判断すれば、恨みつらみをこぼしているはずなのに、やたらサバサバと明るくて陽気だから、笑いながら聞いてしまう。
「でね。サオリが流したうわさが発端で、スピカの契約が決まっていた仕事も、軒並みキャンセルになっちゃったわけ。そこを救ってくれたのが、泉っちをはじめとした稼ぎ頭たちよ。千草姫子《ちぐさひめこ》に東条《とうじょう》まどかなどなど、うちの精鋭たちの言葉には真心がある。司会ってのはね、トークが巧いだけじゃダメ。愛がなきゃ、愛が」
 一気に語ったチカが、しみじみ頷く。美咲も大きく頷いて賛同を示した。
 心の中に、スーッと入ってくる。
 なにがって、チカの言う「真心」と「愛」が。
 だから……というわけではないけれど、もう美咲は、フローラルへは戻らない。
 五十風サオリ社長を、先生とは呼べない。どのような事情があるにせよ、お世話になった場所や人に対して不誠実な印象を残したまま去るのは、社会人として正しい姿とは思えない。
 この短時間で大好きになってしまった在原泉と七実チカを裏切った人だと知った以上は、サオリ先生の言葉に素直に耳を傾けられない気がする。
 それよりなにより……おしゃれな形容詞で飾られたテンプレートを繰り返す司会の技を学ぶより、生きた言葉を表現できるようになりたい。
 美咲が目指すのは、その瞬間も、そのあとも、思いだすたび笑顔になれる魔法の言葉だ。
 お祝い酒を零してしまうという美咲の大失態を、「溢れんばかりの愛情に満たされたグラス」に生まれ変わらせてくれた、在原泉のような司会者だ。
 でも、それでもやっぱり不況と聞けば、職業としての不安は募る。悲しいことに、夢だけでは生きていけないのだ、人間は。
 あの……と、美咲はふたりを交互に見た。
「ということは、司会のお仕事は、かなり減っているんですか?」
「減っているのはうちだけじゃなく、ウェディングシーン全体だね。だから狭い枠を取りあい、奪いあうってわけ」
「でもね、新規開拓の余地もあるの。レストランウェディングは微妙に上昇傾向だし、式典やイベント司会の依頼もある。だから、あらゆるシチュエーションに対応できる司会者なら、いくらでも需要はあるわよ」
「そういうこと。全員が泉レベルなら、うちも安泰なんだけどな〜」
 在原レベルという高すぎるハードルに、一瞬心が折れそうになる。
 ただし、とチカがイスから足を降ろし、デスクに両肘をつく。火のついていない咥え煙草を灰皿でひねり潰し、また新しい煙草を唇に挟み、美咲を見あげる。
 そばかすの残る顔と、丸みを帯びた鼻頭は、よく見ればキュート。専任マネージャーだとしたら、もったいない人材だと思う……って、素人の美咲が言うことじゃないけれど。
「とにかく、スピカへの依頼はウェディング司会がメインなわけ。だからマネージャーとしてはウェディングに入れるメンバーを補強したいわけよ。そしたら新しいホテルに営業だってできるし。要するにフィールドを増やしたいんだよね。それには人材が必要だからさ」
 でしょ? と訊かれて、美咲はゴクリと息を呑んだ。
 いまチカは、美咲に同意を求めているのだろうか。
 この仕事に憧れていると……目指していたと知ったうえで、そんな話をするということは……。
 聞いてる? と訊かれ、聞いてます、と即答した。だったらよろしい、とチカが頷く。ということは、やっぱりさっきのセリフは、美咲への「でしょ?」だ。
 だとすれば、どう答えるのが正しいのだろう。
 手が届きそうだったのに届かなかったドアが……見失っていたドアノブが、いま目の前にあると理解して、いいの?
「ウェディング司会限定で、ざっと仕事の流れを話すね。まず、一時間の事前打ち合わせ。当日は二時間もしくは二時間半のパーティーが中心。本番の拘束時間は、およそ前後一時間ずつ。いま言った全部がワンセットで、ギャラは一本これだけ出す。交通費は別途支給」
 急いで足し算した総勤務時間は、五時間から五時間半。それを一本と換算して、いまチカが立てている指の本数が報酬……ということらしい。フローラルで言われた新人価格は、これより五千円少なかったのに。
「すみません、チカさん。あの……いま私は、お仕事として交渉いただいているのでしょうか」
「仕事以外でギャラの話はしないから。いくらあたしでも」
「どうしたい? 松乃さん」
 在原に答えを求められ、美咲は下唇を噛んだ。
「あなた、今日バイトをクビになったんでしょ?」
「……はい」
「仕事、欲しいんでしょ? 結婚生活の先輩として、新郎新婦にアドバイスできるかどうかは知らないけれど、そんなものは司会者としての経験を積み重ねればいい話だから、心配無用よ」
 私だって結婚してないしと苦笑した在原が、どの指にも指輪が填められていない左手をパッと開いた。
 あたしもーと笑いながら、チカが両手を顔の横でパタパタ振る。……明るい。
 黙っていたのに、在原には見抜かれていた。たいしたことじゃないわよと……いろいろあったかもしれないけど大丈夫よと、まるでふたりにハグされているような気がする。
 図らずも涙ぐんでしまった美咲に、煙草のフィルターを噛んでチカが笑う。
「ウェディングの司会、やりなよ。せっかく基礎から勉強したんでしょ? やりたかったことなんでしょ?」
「やりたかっ……」
 過去形を口にするのが憚られた。気づいてくれたチカが、優しく笑って言い換える。
「諦めてないんでしょ? まだ」
「諦めて────ません」
「ホールスタッフのバイトのほうが、収入は安定しているとは思うけどね」
 言われて美咲は、首を横に振った。
 ホールスタッフも素敵な仕事だし、とても楽しい。美しいお料理の数々は見ているだけで心が豊かになるし、やり甲斐もある。でも……。
「なりなよ、うちの子に」
 チカに言われて、ヒクッとしゃっくりが出てしまった。
 寒空で震える捨て猫が、初めて暖かい家に迎え入れられたときの気持ちって……もしかしたら、こんなかもしれない。
 反射的に在原を振り返ると、真顔で腕を組んだまま、かっこよく顎をしゃくられた。
 仕事もプライベートも充実していた幸せの絶頂で、いきなり突き落とされた「破談」の絶望が生々しく思いだされ、前に進むのを躊躇する。
 幸せを感じたいのに、幸せに手を伸ばすのが怖い。
 そんな美咲の背中を、チカがバンッと叩いてくれた。
「ピシッとせいっ!」
 小気味いいほど爽やかな「指導」に、美咲は反射的に背筋を伸ばしていた。
 なんだろう。いま、ものすごく気分がいい。
 こんなにしっかり胸を張ったことなんて、最近なかった気がする。首筋も肩も腰もスッと伸びて、見える景色も鮮やかさを増してくる。スモーキーなパンチカーペットだって、なんならピンク色に華やぐくらいに。
 幸せかどうかを訊かれると、まだ自信はないけれど……でも。
 昨日より、今朝より、数時間前より確実に、自分の未来がカラフルだ。
「あのね、美咲ちゃん。言っとくけど、デビューできるかどうかは美咲ちゃん次第だからね? 滑舌、アクセント、敬語、身だしなみ、気配り目配り。あたしがOK出せるレベルになったら、仕事を入れてあげる。出来ない間はノーギャラ。レッスン料は一回一時間三千円」
 ノーギャラかつ三千円の出費と知って固まったら、人さし指で顔の真ん中を指された。
「この金額をどう見るかは、美咲ちゃん次第だね。うちもボランティアじゃないからさ。でも、誰かさんとこみたいなぼったくりは絶対にしない。あたしを入れてメンバー十人の弱小オフィスだけど、うちは信用勝負なの。できる子じゃなきゃ雇わない」
「最初に言っておくわね。レッスンを三回でクリアしたメンバーもいる。二年預かってもダメだった子もいる。そして、ある程度基礎が出来ているあなたは、私の指導を確実にクリアすれば、三カ月後……夏のデビューを目指せると思う」
「夏の、デビュー?」
 在原は、お世辞を言わない。耳障りのいい形容詞で飾ったり、その場しのぎのセリフを軽々しく口にしない。
 夢へのドアは美咲次第で、青空の季節に開くかもしれない。
 諦めたり逃げたり、言い訳を繰り返したりせず、前を向いて全力で努力すれば、もしかしたら。
 在原が、自身の胸元を親指でグッと押した。
「私が直接指導する。どこへ出しても恥ずかしくない、プロの司会者に育ててあげる」
 ピュウ! とチカが口笛を鳴らす。美咲は反射的に叫んでいた。「やります!」と。 
「ウェディング司会、やらせてくださいっ!」
 勢いよく頭を下げたのは、溢れそうな涙を隠すため。
 ぎゅっと目を閉じ、涙を力業でねじ伏せてから、姿勢を正して微笑んだ。どんなときも微笑を絶やさない、パーティー本番の在原泉先輩のように。
 ヨシと頷いたチカが、「食いつきのいい子、好きよ」と煙草のフィルターを噛んで笑う。
 在原も、「こんなにデキる子だったのかーって、サオリを悔しがらせてやろうじゃないの」と、共犯者のポジションを楽しんでいる。
 気づけば視界が晴れていた。
 丸まっていた肩が大きく開き、肺に空気が入ってくる。同時にエネルギーが満ちてくる。
 色褪せたオフィスの絨毯がパステルカラーの花畑に見えるという不思議な現象に、笑みがあふれる。気持ちって、魔だ。
 気持ちって、魔法だ。カオスなオフィスが、たちまち愛しいホームになった。
 目指すは夢のウェディング司会。幸せを創るお手伝い!
「頼んだよ〜、美咲ちゃん。指名、バンバンとれるようになってね」
「よろしくね、松乃さん。一緒に頑張ろう」
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
 明日から頑張ります! と笑顔で決意表明をしたら。
 今日からでしょーが! と、ふたりから怒号を落とされた。


  第3話に続く https://note.com/jin_kizuki/n/n702b92e8052f →

(創作大賞2024/お仕事小説部門に参加中)

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