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学校へ行く、しごとへ向かう それぞれの立場でふとんから抜け出すヒトの行動について思うこと


はじめに

 1日おきに研究する場での仕事に車で向かう。始動したばかりで暖房のまだはたらかない車内で身ぶるいしつつ、つめたいハンドルをにぎる。すると登校する小学生たちの列に出会う。最徐行で注意しながら進みつつ、ボランティアの交通案内員の方に目礼する。

このあたりは道がせまく、交代で保護者が辻ごとに立ち見守るなかで、道路の左側をかろうじて1列ですすんでいる。車を使えるおとなとちがい、こどもたちは雨の日も風の日も歩き。頭が下がる。

学校と職場。それぞれどうして朝早くからみんなけんめいに向かうのだろう。「だって食べていくため…。」とはせず、ふとハンドルをにぎりながら思う。


寒い時期になると

 このところ車で通勤する。行き1時間、帰り45分の運転がつづく。9時間勤務で合計11時間ほど。身じたくや弁当づくりの時間はべつ。フレックスタイムなのでしばられる必要はないのだが自分からそうしている。昼には職場から出てその週の食料品の買い出しにでかけるなど自由にしている。

とくに苦痛ではない。ほぼはじめからおわりまでぽつんとひとりの仕事なので、むしろ生活は充実ぎみ。成果につながればよいのだが。

さて、話をもどし学校にむかうこどもたち。どんな心待ちで学校に通うのだろう。早朝の外は寒くふとんのなかにいつまでももぐりこんでいたい時期。それでも起きて学校に向かう。

こどもの頃をふりかえるとどんな気持ちで学校に行っていたか。あまりいいことばかりがあるわけではない。かといって遠足や映画鑑賞などの行事はたのしみだったし、それらの行事があるからこそふだんの授業との対比でメリハリになっていたのかもしれない。

でもいまは昨今の状況から、各種の行事についてのきなみ中止かかたちを変えざる負えない。メリハリを効かせようにもかなわない。果たしてどうしているのだろう。どんな学校生活を送っているのか。こどもたちにがまんをしいていないだろうか。


行動の源泉とは

 おそらく日常的に継続する行動のみなもとには、その行為を起こす気になる要因がありそう。

たとえば学校に行けばともだちに会えるという点。これはきっと大きい。きのう何した?このマンガおもしろいよ。こんどいついっしょに遊べる?とか。話そうと思えば話題は尽きないし枚挙にいとまがない。

これはうなずける。ともだちといっしょだから、同級生がいるから授業だってじっとして受けられるし、いやなことだってしぶしぶでもやれる。きっと源泉として大きいかもしれない。

じゃあ、仕事はどうだろう。こどもとちがっておとなたちは食べるためにはたらく、しかたなくはたらいていると答えそう。これらの理由がまず浮かぶ。もちろんしごとで得られる充実感や、社会を支え人の役に立ち得ているといった達成感や使命感もありそう。

わたしはどうだろう。学生時代には人間を相手にするよりは自然のことわりを知るほうに興味が強く、まずはその方面のしごとを選んだ。そしてここ15年ほどはこれまでやってこなかった困っている方々へのサポートに向かった。本業でつづけている学習サポートしかり。そして今回ふたたび研究へ。

そのときどきのきもちの持ち方、出会った人々が作用しているのはたしか。ふりかえるとそのたびごとに行動を呼び覚ます原動力をまわりの方から受け取ってきた。


おわりに

 どうもまとまらないが、冬の寒い朝にぬくぬくとしたふとんから抜け出すきっかけになるものを考えてきた。

こどもたちはどうだろう。親からいわれてしぶしぶぬけ出しがちな子でも目標が明確ならばいつかは自分から起き出そうとするかもしれない。さあ、きょうもサッカーやるぞとか、合奏をそろえてみようとか。

やはり充実感だろうか。これがあるとないでは大ちがい。


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