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ひとことでいうと「若さ」のかんじられる絵をいいなと感じる


はじめに

 ふつう展覧会にいくと複数の絵を鑑賞する。するといつのまにか印象にのこるもの、おもしろいと感じられる作品が2,3点ほどあたまにのこる。がんばろうとかもっと生きようとするきもちをもらえる。いい映画をみたときとおなじ。

きょうはそんな話。

身近なところに

 街にすむようになりちょうど1か月。あらたなすみかからほど近いところに古くからある美術館がある。それだけでない。このあたりは様変わりしつつあり、おおきな公会堂やいまどきめずらしい新しい本屋、古美術をあつかう店など駅前の半分ほどが思いきり再開発されて活気の出てきた。このあたりに沿ってこつぜんと文化エリアが出現しつつある。

さてこの美術館、ふるくから見知っている画家の絵をたんねんに収集。おなじ時代の作家たちの絵とともにゆったりとならぶ。地方でありながらこうした作家の作品に身近に出会える。

せっかくこの場に住めるのだから短い期間かもしれない(2年ほどを予定)が、もういちどじっくりあじわうとしよう。

出向くときは

 話は変わる。これまでに国内外でそれこそかぞえきれないぐらいの絵を見てきた。残念ながらそうした作品たちはあちらこちらにちらばっている。そこここへ足をはこばないと接することはできない。

たいてい展示会に興味をしめしてとか、はじめて訪れた街の美術館だからということで、時間をつくり出向いて作品につぎつぎに接する。

たとえば東京にはしばしばおとずれる。美術館と名のつくものは数多くいちどでまわりきれるわけではない。つぎに寄れたときにはここを観ようとか、すこし足をのばしてみようとか旅先でスケジュールをやりくりする。

もちろん時間の関係で駆け足でまわるのは、ケーキのトッピングだけつまみぐいするようでもったいない。やむなくそうすることもある。だからこそ気持ちと時間に余裕ができるようにセッティングしてむかう。

作品からは

 出不精にもかかわらず、あらたな場所へ出向いたときにまずえらぶのはこうした美術館。むしろ美術館にむかうために旅をするといってもいい。

そこで作品たちが歓迎してくれる。1日に観覧できる絵の数にはかぎりがある。それこそルーブル美術館。まったくフリーの状態での旅だったにもかかわらず、この場所はとてつもない。

最初は美術館4つ、5つぶんぐらいだろうぐらいのつもりで入場したが、観はじめてここはちがうとすぐに気づいた。いやはやここは絵の魔宮。まさに1日の食事をいっぺんに食べる感じ。あたまのキャパシティーを超えてしまい、オーバーフローしてしまうぐらい。

なかでなんやかやはさんだバケットを買い、回廊のような建物の屋外の中庭にいったん出て、中央の透明ピラミッドをみつめながらその大きなバケットをほおばり、再度展示室へとむかう。

絵を見るのに階段を上り下り。なかばかけあしでめぐる。絵を観るのにこんなに体力を要したことはなかった。やはり時間をかけてたとえば数日かけてひとつの翼ごととかじっくり鑑賞したかった。また機会があればいいのだけど。

おわりに

 かず多くの美術館にいく機会から得た結論。その日めぐった絵の数がいくら多くてもお気に入りとは数点にすぎないこと。作品をつうじて作家の人となりがかいま見えてくること。ましてやいくたびも反芻できて作品の印象があたまのなかにきざみこまれるほどの絵に出会えるのは年に1度あるかないか。しかもそれは以前から見知ったものであることはまずない。

そんなつよい印象ののこる作品に共通するのはあふれるような「わかさ」とかエネルギー。のちにその作者の年齢を知り老齢と知りおどろいたことも。20代で描いた作品かとみまごうほど清新なものだった。それだけいのちのエネルギーともいえそうなかがやきを放っていた。

そんな作品にであえるのはほぼ偶然の産物。それだけにおおくの美術館をめぐり、あらたに接する機会を作らないと出会えない。それはプロの作家の作品とはかぎらずアマチュアの作品のこともあり、観るうえで油断できない。
 

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