テキストをながめていて気づいたこと:わたしは上の世代に教わり、若者たちはわたしたち世代から教わる
はじめに
つくえのPCにむかいふと顔をあげた。ここはある研究室。研究パートのわたしにもスタッフの方から研究室のかたわらにいすとつくえを提供していただいた。目のまえにわたしの書籍ととなりには学生の持ちもののテキストがならぶ。それらの本の背表紙をぼんやりながめてあることに気づいた。
きょうはそんな話。
テキストから
おとなりにすわる学生さんの本。いずれもこれまでの専門の講義やこれからの進路に関係しそうな書籍がならぶ。わりと休み時間にもよく本に目を通す読書家。毎週ここへ来るたびに一部の本がいれかわる。なかには図書館から借りた本も。
今の時点でどんな情報を欲しているのか、何を確認中なのかよくわかる。これは若いころのわたしとておなじだった。社会思想の講義の前後には思想家たちの著作を手にとったし、外国映画のあれこれに脱線しがちな英語の教授の話に興味をもち、それらの映画に関心をもった。
岬のむこう、川の対岸、そして峠のさきに何があるのかわからない。それぞれじぶんで越えていき、そのさきに何があるのかみずから行動してたしかめたいし何かを得たい。
なにごとも好奇心でものごとははじまる。たとえばヒトが何をかんがえているか知るには本がいちばんしっかり捉えられる。くりかえし読めてたしかめられる。ページのつみかさねから考えの奥深さやひろがりを概観できる。
著者から
もう一度、学生の書棚の背表紙に目をやる。それぞれの本の著者にはっとした。そのうちの何人かはわたしの存じ上げている方。もちろんここのスタッフの先生の著作もある。そうかそうなんだ。わたしは納得した。すでにこうした本を著す先生方はわたしとおなじ世代。いつのまにやら時はすすみもはやそんなぐあい。
ということはと今度はわたしの書棚に目をうつす。うん、たしかにそう。ふだんづかいの書籍のたぐいをならべている。著者の多くはひとむかしまえに学会で座長や講演の機会などにお世話になった上の世代の方々ばかり。なかには恩師や留学先の先生の書物もふくまれる。
そうかこうして世代ごとに受け継がれていくわけか。連綿とつづくからこそ、技術や知恵が次世代へと受け渡されていく。とうぜんなのだがそのひきつぎの場面に遭遇し、意味をあまり意識しないまますごしていたかもしれない。われにかえりしごとを省みるきっかけになった。
あれっ、すると…
そこまでつらつら考えてはっとした。ペーパーレスの時代。もはやこの研究室とてすすみつつある。そういえばクラウドサービスやデータベース、そしてAIとかはたびたび話題になるが、キーワードに紙媒体のプリンターの更新や書籍に関するものがほとんどない。
本から得ていたものをどうやってとりいれていくのか、その代替方法とはとかんがえると行き詰まってしまった。ネットの世界はいわばおもちゃ箱。ほしい「おもちゃ」をいつもガラガラとかきまわしてみつけるイメージ。さてどうなることやら。
おわりに
時代はあきらかにかわりつつある。しかもそのスピードはもはやとめようがないほど加速しつつあるように思う。
ところが、おそらく農耕がはじまりいまもってさまざまな戦いやあらそいごとの明快な解決法をみいだせていない。
多様性の尊重ってむずかしい。いびつな進歩。いやむしろこの「進歩」の言葉を現在にあてはめてみつめなおすとそうじてそぐわない気がする。
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