教えつづけて「学び」について自分なりに見えてきたこと
はじめに
しごとをそれなりにつづけていると気づきがある。ヒトにものをおしえたり、まなびをサポートしたり。てはじめにおしえた相手がすでに中年に。じぶんが歳をとるはず。
ただし、それがほかの方々にとって意味のあることかわからないし、読まれてなにか得られるものかどうかしれない。自己紹介をかねてふりかえる。
きょうはこんな話。
自己紹介をかねてふりかえると…
過去のしごとをかえりみるとけっこう特異なほうかもしれない。
学生当時にはじめた家庭教師にはじまり、教職(研究歴も並行しているが)の道にすすんで途中でからだをこわしてやめ、マイペースでやれる学習サポートを現在までつづけている。それぞれ10~15年単位ではたらく環境をかえてきた。いずれもヒトになにかをおしえるという点では共通している。
年代は下はひとけたから上は90代まで。とくに10代から20代が多い。さまざまな児童・生徒・学生たちへつたえる内容はちがうし、はなしかたもそれぞれことなる。対象の年代の広さこそが特徴だし特異な点かもしれない。
内容はいわゆる国語・算数などの教科だけでなく、図画工作や技術家庭科などの実技教科をふくめ、さらに生命科学や倫理学、さらにまなびかたや進路の相談など多岐にわたる。それぞれ教員免許にたよらず、教科書のつかいかたからサポートのしかたまで変わっているしれない。
教えるためのまなび
これだけ多岐にわたるとまなびつづける必要がある。それぞれ更新しないとならない。教科内容は時代とともに変わる。たとえば情報、宇宙、生命科学などは数年おきに内容を見なおす。最近では心のもちようや発達障害への対処なども。
さらに人間だれしもあることだが例外なくわすれてしまう。あらたに知識を得て理解をすすめる一方で、過去できていたのに思い出せないことが多い。頭にはいる速度は落ちつつあり、わすれるスピードは徐々に上がっている。生徒は伸長するが、こちらは停滞ぎみ。
年齢をかさねるのは必定で抗えない。わるいことでもない。おぎなうのは経験と勘か。2,30代のころとくらべ、あきらかに要領がよくなり、悪くいうと図太くずる賢くなった。忘れてもあわてずにそれとなく回避して「ごまかして」しまう。
体力や気力のおとろえはそれらでやむなくおぎなうしかない。教える人材が枯渇しつつある地域なので、どうにかしのいで後進をそだててもうしばらくは役に立ちたい。
気づいたこと
さて、教えてきたなかでの気づきを3つ記したい。
ひとつめは、くりかえし教えているうちに自分のものになること。つまり基盤となる情報の網ができて、確固としたものになるようだ。頭が整理されてひきだしやすくなる。一部をわすれても回避ができるようになれた。
ふたつめは、学問分野どうしのむすびつきや連関が見えてくること。たとえば数学は、高校時代は解くのがくるしみで、将来つかわないだろうと思いつつすごした。のちに実社会の予想外の分野で数学が役だっていると気づけると、見かたがちがってくる。まなびの動機づけでそれをもっと活用したい。
3つめはまなぶ段どり。あるレベルまで効率よく身につけるにはどうしたらよいか。各々の生徒のパーソナリティーにおうじて学力をつけるためのタイムスケジュールをすぐにえがけるようになれたこと。
おわりに
けっきょく学習のモチベーションをたもち、なんとか身につけてもらうにはそれなりのくふうを要するようだ。
さきにまなんで教えるからこそ「先生」なのだと思う。いましばらくつづけてさらに気づきをふやしたい。
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