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テレビを観なくなって変わったことと変わらないこと


はじめに

 すでに予兆があった。テレビはすでにわかりやすい天気情報の提示装置と化していた。昨今の状況に陥り農業をやめ、それと同時にテレビもやめた。それからはや1年がすぎ、すでに手もとにテレビ受像機は存在しないしもとめていない。

この1年あまりで基本的に必要ないとの結論を得た。そのぶんできた時間は貴重。ほんとうにやりたいことにつかえる時間をもらえたと思う。

きょうはそんな話。

どのくらい観ていたか

 これまでの生活をふりかえる。農業をやるまえぐらいの位置がいいだろう。かれこれ7年まえ。さらにそのまえはサラリーマンだったので、基本的に夜おそく帰宅していた。おそい晩ごはんを食べてふろにはいり、寝るまでのごく短いあいだに家族が観ているのを横目でちらりとみる程度。

それも週に1度ぐらい。休日だけでなくお盆も正月もしごとをしていた。じぶんからスイッチをつけるのは1週間で15分程度、よるのニュース番組をなにかをしながら(その日の新聞を読みながらとか)聞きかじる程度、その途中でねむくなる。両方ともあたまにはいらずいつのまにか就寝。

転職後に学習サポートをはじめたころは教材のビデオづくりでわりと受像機をつかっていた。もっぱらその道具としてのやくわりが多かった。この番組を観ようという機会はすくなくごくたまにサッカーの試合を観戦する程度。

そんなにつかわない

 さきにやめたのは新聞のほう。昼間に得た情報の焼きなおしにすぎないと気づいた。以前の新聞のようにもっと掘り下げてほしいのに(とくに科学記事)ものたりない。しかも記述にあいまいさや疑問を感じることも。何度か誤りを報告したがお礼の返事ひとつよこさない。小学校高学年のころから長年つづけていたにもかかわらず、わりとあっさりやめた。

それにかわるものは結局のところ科学記事ならば原著論文がいちばんたしか。よぶんなヒトを介在しないぶん読み手のわたしに内容の解釈や世にあたえうるインパクトの軽重や意義の判断はまかされる。自らの判断に迷うときにはそのまま放置して時の経過でそれらを判断する。

そののち続報にふれなければ、たいした内容でない可能性が高い。続報や追試の結果が出つづけるようならインパクトがあり、世の注目をあつめる情報だったといえそう。それでかまわない。

新聞やテレビの情報を待たなくても、続報があるかないか、どんな結果になるかは推移をみつづければそれ相応に淘汰される。それでほぼまちがいなさそう。科学以外はどうかな。

テレビはいらない

 そう判断すれば行動はひとつ。テレビはいらないと結論がでたのは新聞をやめてから数年後。それがちょうど1年まえ。もはやそう思えたとたん、この装置への興味がうすれて存在すらあやふやなものに。かといってほかの媒体(ネットや週刊誌など)で情報をほしくなるかというとそうでもない。

世間への関心がうすくなったのかなと一瞬思ったが、そうでもなさそう。必要なときに情報をあつめる手段はそれ相応にある。ほしいときだけ接すればいい。

それまで川のような情報のながれをほとりからながめつづけた状態をテレビとすれば、いまはのどが渇いたら山中の湧水まででかけてのどをうるおすという行動にかわった程度。ひと手間いるがたしかな情報のありかさえこころえていればそれでかまわない。

おわりに

 いちばんほしくなるのは天気ぐらいかな。あとは時刻ぐらい。これさえあればくらせる。のこりは必要に応じてほしいだけをちょろりとあつめればいい。ラジオでじゅうぶん。

これでも県内初とか、まわりでははじめてというしごとやなにかをやった実績をもつ。それにマスコミやテレビはまったく関与しなかった。ものめずらしいのだろうか、どこから知ったのか取材の依頼などとびこんでくる。いずれもお断り。ふりまわされたくない。まわりにふりまわされないので、独自のものになっているのかも。

情報って本来そんなものにすぎないのかも。むだに胸さわぎやさざなみを心におこさせる道具に過ぎなかったのかも。なくなって1年がすぎてそう思う。


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