【本当の自分であるということ】
今、読書会で「デーミアン」(ヘルマン・ヘッセ著)を読んでいる。
(宣長と二本立てだ)
育ちがよくて甘々な少年が主人公で、名前をシンクレアというのだけれど小学生の頃に学校で教えられている聖書の道徳に、堂々と自分の違う意見を持って語る年上の少年デーミアンに出会い、
シンクレアは疑いもなく信じていたから驚いて、でもピンチを救けてもらったりしながら強く惹きつけられる。
しばらくして、シンクレアは寄宿舎のある高校に一人進学する。
(それが今月読んだ章だ)
同学年の子たちは少し未熟なのでそれを見下していて、世慣れた先輩たちと酒場で馬鹿騒ぎをするようになるけれど、空虚なものを感じながらそれをやめられない。
本当に自分が関心があるものを言葉にできないでいるのだ。
そこで、たまたま郷里に帰った時にデーミアンと出会う。
世慣れた風に酒場に誘って一杯やるのにデーミアンには全て見透かされたみたいに、賢者だって遊び人からジョブチェンジするんだしなみたいなことを言われて(笑
俺は賢者になりたいわけじゃないただ結局飲むのが一番楽しいし
と口を尖らせて言うのだけれど
僕はなぜ君が酒を飲むのか分からないし君だって分かっていない。
でも本当はそこに何かあるんだよというようなことを言われて別れる。
シンクレアはその後すごく素敵な少女を町でみかけて、話しかけもせず、
勝手に「ベアトリーチェ」という呼び名をつけて彼女の肖像画を描き始める。
描いている内に、それは本人には似つかずに、さらに書き直すうちに段々とデーミアンや自分の顔に似た顔になっていくのだった。
・・
カウンセリングで、後の世代に革命的な影響を与えることになる
「傾聴」という方法を作り出したカール・ロジャースという人がいる。
ロジャースの傾聴は、ただ話を聴くというだけではなくて
①共感的理解
②無条件の肯定的関心
③自己一致
が要であると言っている。
ここで、日本語でよく理解されにくいのが③の「自己一致」という言葉だが、元の英語では「Genuine」であること、となっていて
例えば本革のことを英語で「Genuine Leather」と呼ぶように本物であること、それ自身であることを指す。
これは、例えばシンクレアであれば
「自分の弱さを分かっている」とか
「自分がアルコールに逃げていると分かっている」とか
を指すのでは“無い”。
一見、そうでありそうなのだが
「Genuine」つまり、【自分自身である】とは
自分がある状況にあって、例えば同級生としっくりこず上級生と酒場で馬鹿騒ぎをして、楽しいとも感じれば、虚しいとも感じていて
でもそれを周りに吐露できないで、そのことは自分には人生の浪費とか
自堕落なことだと感じて、負い目と思う自分がいる
そういう「自分がいる」ということを認識していること。
それが【自分自身である】つまり「Genuine」であるということなのだ。
・・
さて、そうやって自分の中を見ていくと「自分」って空っぽなんだということに気づいていくはずだ。
ついていけない父母の道徳も、反抗して先輩たちと飲む酒も、そのことに堕落と感じる気持ちも。「自分」といいながら、どこかから学んでマネして持ってきたまがい物たちなのである。
さて、シンクレアは、素敵な人に出会って、彼女を絵に描くことで多分それに気づいた。
好きな人の顔が自分になったり、デーミアンになったり、デーミアンと最初に話した自分の家の門に刻まれていた文様になったりしていって
それが自分の中にある言葉にならないイメージで、どこか外で出会ったものたちであることに気づいたはずなのだ。
だからシンクレアは絵のタイトルに、ノヴァーリス(ドイツの詩人)の言葉を書く。
それは、「心と運命は同じものである」という言葉である。
皆でここはするっと読んでしまってこの言葉を読み流たのだけれど、
後で話しながら振り返ると、ここはなかなかのキーポイントだった。
ノヴァーリスは「青い花」という幻想作品を書いたのだが、それは未完で終わっており、それにインスパイアされてメーテルリンクは「青い鳥」を書くのだけれど、そのノヴァーリスはこんなことを書いている。
「すべて、見えるものは見えないものに、聞こえるものは聞こえないものに、感じられるものは感じられないものに付着している。
おそらく、考えられるものは考えられないものに付着しているだろう」
見えるものと見えないもののように自分と世界とを分けることは難しい。
インド哲学では、自己をアートマンと呼び、世界をブラフマンと呼ぶ。
心と運命とが同じとは、アートマンとブラフマンが同じであるということだ。
さて、その溶けて消えてしまう自我で何を作りどこに歩いていくのか。
それがこれからの
物語となっていくはずである。
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