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僕が占いを信じない理由

占い。経営者はとても孤独なもので、事業の最終的な決断を一身に追うことも少なくありません。そのため、自身の判断に少しでもヒントを得ようとして、占いを好む人も多いものです。

ただ、僕は個人的に占いは聞かないタイプです。「しいたけ占い」とか、いい事を言ってることもあるみたいだけれど、影響を受けるのが嫌なんですよね。フーンと思っても、反発しても影響を受ける事には変わらない。まあ、こだわりすぎるのも捕らわれであるといいますけれど。


■ 占いの起源

最も古い占いは古代中国の「卜占」であると言われます。カメの甲羅やシカの肩甲骨を焼いて、ヒビによって吉凶を占います。甲羅の左右に「○○をする」「○○をしない」と書いておいて、どちらが良いか占います。とはいえ、発掘された遺物を見ると、同じ占いを多数行って、望みの結果の物を朱で文字を補強したような形跡もあり、支配者が望んだ結果を裏付けるおまじないのように使われた面もあるようです。

直接のつながりは分かりませんが、そのような風土から発展していったのが「易」です。「易」は陰と陽の2種類が2×2で4、4×4で8、8×8で64と増えていき、64の卦を一つの事象を表す象徴として、悩みごとの吉凶を占うものです(だから当たるも八卦当たらぬも八卦と言うのですね)。易では筮竹というものを振りますが、簡単には複数のコインの裏表などでも占うことができます。今ここに起こっている事象と、そこで振られた筮竹に何らかの関連を感じ取るという哲学があります。

哲学としてそれを極めると、わざわざ占わなくても事象から先を予測することが出来るようになります。例えば、二宮尊徳は茄子を食べた時に夏前なのに秋茄子の味がしたとして、冷夏に備えたという伝説があります。陰と陽は移り変わるもの。陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる。だから、自分がまだ拙ければ成長する余地があり、逆に調子が良い時には下降するきっかけが生じやすいもの。そのことを感じ取って敏感であれば変化に気づきやすくなります。僕は、この背景の考え方には共感します。でも、占いに頼ろうとする思考が、この敏感さを逆に奪うような気がしてならないのです。


■ 占いシステム

どんな占いでも、占いという何らかのボックスに情報(誕生日や名前の画数や、それを数にしたものとか、血液型とか)を入力し、それに占いシステムというブラックボックスで何らかの処理をして、決められたパターンから一つの結果を選択して出力します(易ならそれが64パターンあるわけです)。

そもそも出力として人の命運がいくつかのパターンで表現できるでしょうか。心理学では人の性格というものがどんなものかということにも決定的な説明はされていません。最近では「ビッグ・ファイブ」という理論がありますが、人の性格や人格特性に関する表現を分析していって、5つに集約されるとされたものなのです。これは帰納的に相当面白いと思います。その因子とは「外向性」「開放性」「誠実性」「調和性」「情緒安定性」の五つです。一般的に人の性質や性格を分ける時に、この五つに沿って考えることはそれほど一般的じゃないかなと思います。なので、伝統的な占いは出力される人間理解に根拠が薄いのです(ビッグ・ファイブを名指した占いもありますけど、だから正しいというわけではないですからね^^)。

人は儚くて脆い生き物です。だから、昔からいろんなものを恐れてきたし、何とか未来を予測しようとしてきました。幸運のおまじないのウサギの足から占星術まで、みな同じですね。だけど、それこそが人生なのです。そこをどのように切り開くかが才覚であって、人が生きる意味というものだと僕は思っています。


■ まとめ

占いの話をする時に、いつも心に浮かんでいる本の言葉があります。「恐怖の博物誌」という本なのですが、あとがきの最後にこんな一文があります。

〝おまじないなど何の救いにもならぬと考えるものは、一定の割合で必ず事故が起こる不安の中で生きるしかない。周知のように、ほとんどの人間は何かの慰めで包んでやらない限り死と直面することができない。われわれは優れた認識能力のもたらす報酬が絶望の可能性であることをよく知っている。だが人間とはじつに皮肉な存在である。作り話などで慰めて欲しくないという覚悟すら慰めと力を生み出してもくれるのだから。 〟

僕は、占いに頼らないということを力に変えられると思っていて、そっちの方が好みなのですね。人の営為には、深く人の心理の形が刻まれていて、僕は仕事柄そこに鋭敏である必要があります。だから、無自覚に占いを信じられないし、むしろ人を知る手段として捉えているのです。

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