見出し画像

「慧能示寂直後の禅思想」鈴木大拙

鈴木大拙を読んでいたら、今読書会で継続して読んでいる宣長が出てきた。こういう事に関心が強いのは、日常とか自分とか社会というものに、新たな視点や切り口を与えてくれて、突破するヒントが見つかるからだ。

いやだってさ、日本の政治とか社会に不満があっても、「じゃあ、どうしたい?どうしたらいい?」って、こういう所から考えていくしかないじゃない?

■ 

神會の只没道(ただ道)は一度は若為道(何かのための道)を通過して来たもので始めからの只没道ではないのである。霊性的自覚の上に現れた只没道―形式論理の矛盾をいやが上に味わってからの自己同一または絶対的一元観は、人間的思惟の鉗鎚(ケンツイ:カナばさみとカナヅチ)の下で極度に鍛はれて、初めて感得するところのものだからである。

それ故に、無念は普通神道家の云う「神ながら」とか、老荘家の教ふる自然無為ではないのである。「神ながら」は熱火的人間思惟の爐鞴(ロハイ:ふいごのこと)をくぐって居ない。極めて原始性を帯びている。「神々」にはそれでよいかも知れぬが、「人間」の役には立たないのである。

宣長は漢意(カラゴコロ)の理屈っぽいのを嫌うと云うが、嫌うだけでは何にもならぬ、これを乗り越えなくてはならぬ。これには並々ならぬ思索的敢闘精神が必要である。この精神は一時的突発性のものでは埒があかぬ。十分なる持続性をもった悪戦苦闘でなくてはならぬ。宣長の思想的態度は退嬰的萎縮性をもって居る、漢意にまけて古典の古巣に逃げ込む。

この古巣は政治性を持って居るので、理性の攻撃を阻む一時性の物力を恃み得るのである。宣長にこのような意識はなかったとしても、彼を逐うて出て来た神道者流にはそれが十分にある。彼等は自らの理性的、霊性的力量の不足を政治性で補足せんとする。古典の古巣は彼等にとりてはこの上なき武器であった。「神ながら」がこれと結びついて出てくるので、「神ながら」はもはや「神ながら」でなくなった。

原始性の「神ながら」なら、またそれに固有の興趣があるので、われらを動かさないでもない。われらは稚拙、古拙ということを愛する、嬰児性の作品にも相応の美的価値を認められることもない。原始性の「神ながら」が、萎縮して硬化して、少しも発展性、包容性及び内在性ともいうべきものを持たぬ思想で歪曲せられると、ただ嫌悪の念を動かすに過ぎなくなる。

老荘家流の無為又は自然は上記の「神ながら」よりも好いところがある。それは政治性を持たぬからである。又人間性に訴えるだけで「神々」のご厄介にならぬからである。

―「慧能示寂直後の禅思想」鈴木大拙

鉗鎚と爐鞴についてはこちらもどうぞ。上の書と一緒に解説があります。
https://sho.goroh.net/tedareno-rohai/

ただ古いから、日本で生まれ育った思考だからといって「神ながら」とか「もののあわれ」を自分の理念とするのであれば、大拙が言うようにそんなの赤ちゃんだよね。または、政治的だって言ってもいいかも知れない。

だが、無定見に自分の中に取り込むのじゃなくて、考えるためにもその素材が必要なのだ。たいていの禅僧は自分の中に、どうしても見つけたい問いを持っている。それをもって、色々な寺院の門を叩く。他人の言う事をスッと飲み込める人などそういないものだ。

まず、違和感を大事にすることだ。それを育てたところに、自分が大事だと思う事が眠っている。その、自分の信念を育てるためにはまず、違和感と出会わなければいけない。

※読書会にご興味ある方はこちらからお問合せ下さい。詳細をお伝えします。https://form.os7.biz/f/e437b2a0/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?