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大衆文学研究会で、父・団鬼六を語ってきました。

ひょんないきさつから、大衆文学研究会神奈川支部の講演で

「父としての団鬼六」いついてお話しさせていただく機会を得ました。

改めてそういったお題を出されて、

はてさてあのハチャメチャな親父のどこから話していいか

途方に暮れておりましたが、

久々に鬼六周辺のいろんな記憶を呼び起こすよい機会ともなりました。

たとえば、「人生は勝負事や。小説なんかやめて相場やれ」と

いつも鬼六に訳の分からぬ薫陶を与え続けた鬼六の父・信行のこと。
(鬼六の投機的かつ破滅的な衝動の性格基盤は間違いなく、この私にとっての祖父・信行によって形成されました)

原稿料が入ってくれば、大勢を引き連れて銀座や野毛でのどんちゃん騒ぎ、

それらをすべて鬼六のポケットマネーで支払っていたこと。

私の子供時代、家の庭先でしょっちゅう鬼六監修の緊縛撮影をしていて、

友達を呼びづらかったこと。

「ただいま」と言って帰ると

「そんな形式ばったこと、いちいち言うな」となぜか𠮟られたこと。

鬼六はとにかく話が面白かった。大笑いした後、

あまりにできすぎた話なので問いただすと最初は「ほんまや」を繰り返す、

4度目くらいにやっと「そのほうがおもろいやろ」と白状すること。

私が会社員だったころ勤め帰りに汗を拭きながら

自宅に向かう坂を上っていると、

「全国の労働者諸君、お勤めご苦労!」

とベランダから大声で呼びかけられ嫌な思いをしたこと。

病が末期となり他界する直前、

東日本大震災の翌日に予定していた最後の温泉家族旅行、

奇跡的に実現できたのはいいが現地の売店が閑散としているのを見て

店がかわいそうだとお土産を抱えきれぬほど買い漁っていたこと。。。

そんなエピソードを交えながら

横浜・港の見える丘公園の中にある近代文学館で

とりとめもなくお話ししました。

当時の写真などを掘り返しながら資料作りもしたので、

久しぶりに父と会話しているような気分にもなれました。

今回講演のお声掛けをいただいたのは

大衆文学研究会の事務局長をされているAさんから。

ひょんないきさつと言いましたが、

このAさんと初めて出会ったのが

野毛にある老舗バーで一杯やっていた時のことで、

そこは生前鬼六も何度も訪れていたバーだったのです。

Aさんは元・大手出版社の有名編集長で、

当時鬼六とも何度か会ったことがあるという話で大いに盛り上がり、

じゃあ、ぜひ、という流れで今回のお話をいただくことになったのです。

まあある意味これも鬼六の導きのようなものだったのでしょうか。

「ただ遊べ、帰らぬ道は誰も同じ」は鬼六が生涯標榜した言葉で、

それを見事に演じきって人生を終えたわけなのですが、

確かに遊んでるとこういった嬉しい出会いもあるのだなあと、

少し納得するわけであります。

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(写真:大衆文学研究会のお歴々。野毛の某老舗バーにて)

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