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あるイラン人プロレスラーの死

 6月7日、1970年代から米国を舞台に活躍したプロレスラーのアイアン・シークが亡くなりました。81歳でした。彼の家族が、彼自身の公式ツイッター・アカウントで明らかにしたのですが、死因や亡くなった場所についての言及はありませんでした。

 その声明のなかでは、彼の本名が、ホセイン・ホスロー・アリー・ヴァジーリーであると述べられていましたが、彼の出自については触れられていませんでした。実は、彼は1942年、イラン北部セムナーン州のダームガーンで生まれたイラン人です。貧しい家庭に生まれましたが、イランの有名なレスラーで、1956年のオリンピック・メルボルン大会で金メダルを獲得したゴラームレザー・タフティーに憧れて、アマチュアレスリングをはじめたとされています。イランはレスリング強豪国として知られており、多くのオリンピック・メダリストや世界チャンピオンを輩出しています。その意味で、ヴァジーリーがレスリングの道に入ったのは当然かもしれません。

 私の子どものころの記憶では、ヴァジーリーは1968年のメキシコ・オリンピックに出場したことになっていたんですが、今回、この文章を書くにあたって、いろいろ調べてみたところ、どうやら、私の記憶違い、あるいは当時私が愛読していたプロレス雑誌の記述が間違っていたらしい。ただ、イランの国内チャンピオンにもなり、そのためか、当時のイランの国王、モハンマド・レザーシャー・パフラヴィーおよびその家族のボディーガードをしていたともいわれています。

 しかし、1968年、彼の憧れであったゴラームレザー・タフティーが謎の死を遂げてから、状況が一変します。イラン当局は自殺と断定しましたが、タフティーがしばしば当時のイラン体制を批判していたことから、多くのイラン人が、彼は体制によって暗殺されたと考えました。ヴァジーリーもその1人で、そのため、彼は、タフティーと近かった自分の身にも危害がおよぶかもしれないと考え、結局、米国に逃げることを選択したのです。

 ヴァジーリーは米国でもレスリングをつづけ、アマチュアレスリングのチャンピオンに輝きました。1972年のミュンヘン五輪の米国のアマチュアレスリング・チームのアシスタント・コーチも務めていました。その後、AWA(アメリカ・レスリング協会)の王者、バーン・ガニアに見いだされ、日本の国際プロレスでも活躍した「人間風車」ビル・ロビンソンのコーチを受け、米国でプロレスラーとしてデビューします。

 当初は本名に近いアリー・ヴァジーリーやホスロー・ヴァジーリーのリングネームでベビーフェイス(善玉)として戦っていましたが、さすがプロレスだけあって、いろんな「ギミック」がつけられるようになります。ちなみにギミックとはレスラーのリング上での「仕掛け」のことで、レスラーには、身長や体重といった基本的な情報だけでなく、その出自などがしばしば誇張され、創作され、捏造されたかたちで、いろいろなキャッチフレーズがつけられます。たとえば、当該レスラーがドイツ系の出自だったら、しばしばナチスと結びつけられます。有名な「鉄の爪」フリッツ・フォンエリックに「元ヒトラー・ユーゲント」というギミックがつけられてたのは有名ですね(子どものころの記憶なんで不確かです。いずれにせよ、ウソだとは思いますが、子どものころは本気で信じていました)。

 さて、ヴァジーリーは中東系ということから、アイアン・シークとかグレート・フセイン・アラブなどのリングネームをつけられました(そのほか、ムスタファー大佐とか)。アイアン・シークという名前は、もちろん、ヴァジーリーより2世代近くまえの、有名なレスラー、シークの本歌取りです。シークはレバノン人移民の子で、本名はエドワード・ファルハートといいました。彼は当初、本名のエディー・ファルハートとしてベビーフェイスのレスラーだったんですが、シークを名乗るようになってからは、それにふさわしいギミックがどんどん増えていきます。なお、シークは、「師」「長老」「部族長」などを表すアラビア語の「シェイフ」の英語訛りです。

 シリア出身を僭称し(歴史的にはシリアもレバノンもそれほどかわらないけど)、頭にはクーフィーヤと呼ばれる頭巾を乗せ、イガールと呼ばれる輪っかでそれを押さえ、中東風のガウンを着用します(ガウンについてはこちらを参照)。リングに上がると、香を炊き、礼拝用の絨毯を敷いて、そこでイスラーム式の礼拝を行う(ただし、彼は本来、マロン派のキリスト教徒)。そして、得意技はもちろんキャメルクラッチ(ラクダ固め)です。日本にきた際には「アラビアの怪人」と呼ばれていました。ただ、ヴァジーリーがアイアン・シークのリングネームで頭角を現してくると、本家は「オリジナル・シーク」と名乗り、差別化をはかりました。その後、残念ながら2003年に亡くなっています。

 さて、アイアン・シークのほうですが、彼もクーフィーヤにイガール、中東風ガウンという本家シークのスタイルを踏襲しています。ただ、さらに錯綜しており、つま先が尖がって、くるっと反り返ったリングシューズを履いたり(これが中東風なのかどうか知りません)、そのシューズやパンツにはラクダのシルエットが書かれていました。当然、得意技はキャメルクラッチです。

 米国のプロレスのデータを見ると、デビューの1973年から1977年までは本名、ないしそれに近いアリー・ヴァジーリー、ホスロー・ヴァジーリーのリングネームで戦っていたけど、アイアン・シークの名前もかなり早い段階で使うようになっていました。1977年ごろからアイアン・シークをメインに名乗りはじめ、1979年から1981年にはフセイン・アラブ、あるいはグレート・フセイン・アラブの名前をおもに使っています。また、1991年と1992年にはムスタファー大佐というリングネームも使っています。どうやら、試合を行う興行団体によっても使いわけているようです。

 ここで指摘しておかねばならないのは、名前の変遷と彼が戦ってきた時代です。彼がフセイン・アラブのリングネームを使いはじめた1979年はイランで「イスラーム革命」が起きた年です。そして、この年の11月にはイランの首都テヘランにある米国大使館が占拠され、多数の米国人が人質になる事件が発生しました。この事件をきっかけに米国人の反イラン感情はピークに達しました。

 ヴァジーリーがアラブ風の衣装を身にまといながらではありますが、イランの国旗をもってリングに上がり、イラン・イスラーム革命の指導者、ホメイニーの写真に向かって平伏叩頭するようになったのは、確証はないものの、この事件が契機だったかもしれません。

 一方、ヴァジーリーの別のリングネーム「グレート・フセイン・アラブ」あるいは「フセイン・アラブ」はどうでしょう。イラン人なのに、なぜ、アラブを名乗るのか?まあ、大半の米国人にはアラブ人もイラン人も区別がつかなかったからでしょう。アラブ人もまた米国人のあいだでは、パレスチナ・ゲリラなどの事件もあり、しばしばテロリストと同義語として、使われていました。彼は「悪役(ヒール)」だったので、米国にとっての悪役としては老舗のアラブのほうが通りがいいと考えたのかもしれません。

 もう一つ、不思議なのは英語ではフセイン・アラブなのに、日本ではなぜか「ハッサン・アラブ」と呼ばれていたことです(ちなみにペルシア語での発音はホセイン)。私自身、彼のことで一番覚えているのは1979年12月にアントニオ猪木と戦った試合ですが、このときもたしかハッサン・アラブの名前を使っていました(日本では米国以上に中東に対する理解がいいかげんだったということでしょうか)。

 また、1991年から名乗ったムスタファー大佐(カーネル・ムスタファー)はどうでしょうか?これも、この年を考えると、たいへん興味深いです。そう、1991年は、米軍主体の多国籍軍がイラクと戦った湾岸戦争が起きた年です。このとき、ヴァジーリーは突然、名前をムスタファー大佐と変え、バグダード生まれのイラク系米国人プロレスラー、アドナーン将軍(ジェネラル・アドナーン、本名はアドナーン・カイシー)、そしてスローター軍曹(サージェント・スローター)と組んで、ヒールとして大暴れしました。ちなみにサージェント・スローターはサッダーム・フセインに魂を売った裏切者というギミックで登場、ジェネラル・アドナーンはサッダームと高校の同級生という触れ込みでした(イラク人であるのはほんとだけど、高校の同級生云々は不明)。

 イラン人として生まれ、シャーに仕えながら、シャーから逃れ、今度は米国人として、リング上でアラブ風の名前と衣装で、イスラーム革命に忠誠を誓ったり、サッダーム・フセインを賞讃したりするために米国人と戦い、最後は米国プロレス界のレジェンドとして死ぬ。何ともブレの激しい人生ですが、これもきっと革命に翻弄されたイラン人の一つの生きかたなのかもしれません。

保坂修司


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