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シェイフ・メッシとビシュト

 2022年11月20日に中東のカタル(カタール)で幕を開けたサッカーのFIFAワールドカップ(W杯)・カタル大会は、12月18日、アルゼンチンの優勝で幕を閉じました。単に中東で開催された、はじめてのW杯であっただけでなく、モロッコやサウジアラビアなどアラブ諸国の躍進、番狂わせ、さらにはイランで体制を揺るがす抗議デモが発生しているなか、イラン代表チームによる無言のデモ支持表明などもあり、中東地域ではこれまでにない注目を集めていました。
 カタルを含む湾岸地域を専門とする筆者としては、試合結果だけでなく、カタルや中東、アラブ、湾岸地域をめぐる内外メディアの言説にも大いに関心をもちました。とりわけ、最終日、アルゼンチンの優勝セレモニーのとき、主催国カタルのタミーム首長が、アルゼンチン代表の主将メッシに黒いオーガンジーのような透け感のあるローブを着せたことが話題になったのが興味深かったです。
 欧米のメディアではあまり評判がよくなかったようで、アルゼンチンの最高の晴れ舞台だというのに、アラブの服を着せられ、アルゼンチンのユニフォームが隠されてしまったという意見がけっこうたくさんありました。欧米のメディアだけではありません。元日本代表の本田圭佑も「早く脱いだほうがいいんちゃうかな。アルゼンチンのユニホームを全面的に出したほうがいいじゃないですか」とコメントしていました。ヤフコメなんかみても、どちらかといえば、否定的な意見のほうが多かったと思います。
 欧米メディアの否定的な報道をみると、何となく、アラブに対する差別意識が透けてみえる感じもしないでもありませんでした。個人的には、黒いローブをきたメッシの写真を見るだけで、カタル大会のときだとすぐわかるので、いいのではないかと思いましたが、いかがでしょうか?
 さて、このローブですが、湾岸のアラビア語では「ビシュトbisht بشت」(複数形はブシュート、あるいはビシュート)といいます。古代メソポタミアのアッカド語で「高貴」「尊厳」を意味する「ビシュトゥ」が語源だといわれていますが、ペルシア語だとの説もあります。なお、メッシがビシュトをきたため、ビシュトの語がツイッターでトレンド入りしたり、土産としてバカ売れしたりといった現象もあったようです。
 不思議なことに、手持ちの代表的なアラビア語辞典『ムンジド』やLaneのArabic Lexiconには「ビシュト」の語が入っていませんでした。さらにいえば、アラビア語学習者にもっとも利用されているHans WehrのArabic-English Dictionaryでは、「bušt(ナジュド(アラビア半島中央)、バハレーン、イラク)クロークの一種」とあり、湾岸方言であることが示唆されていました。
 日本語のメディアでは、このビシュト、「アラブの男性が結婚式や卒業式などの公的な行事で着る伝統衣装」(AFP時事)とか、「アラブ諸国では特別なイベントや冠婚葬祭で着用される伝統的な民族衣装」(サッカーダイジェスト)と解説されています。Wikipediaの英語版では「西洋でいうところのブラックタイのタキシードのようなもの」と書かれていました。
 私自身、カタルにおけるビシュトの役割についてはよく知らないので、何ともいえませんが、他の湾岸諸国、たとえば、同じアラビア半島、ペルシア湾岸のクウェートやサウジアラビアのケースでいうと、少なくともタキシードほど公式の感じではないと思います。ビシュトは、個人的な経験にすぎませんが、もっと一般的で、寒いときなどに羽織ったりすることもあるのではないかと思います。
 ただ、メッシがきたような錦糸で縁取られたものがハレのときに着用する特別なものであることはまちがいないでしょう(とはいっても、タキシードほどではないと思います)。アラビア半島の、あるいはムスリムの女性がきているものに、「アバヤ(より正しくはアバーヤ、アバーア)」という全身を覆い隠す長衣がありますが、ビシュトはしばしば男性用のアバーヤだと説明されます。
 クウェートではビシュトにもたくさん種類があって、それぞれ異なる名前で呼ばれています。そのなかにはどちらかといえば、防寒用として用いられるものもあり、「ファルワfarwa فروة」と呼ばれる長衣はそれかもしれません。クウェートでは、メッシがきたような金糸銀糸で縁取られた豪華なビシュトは「ビシュトゥッシュユーフ」つまり「シェイフ(長老とか部族長など偉い人)たちのビシュト」と呼ばれたりします。
 筆者がよく利用する『クウェート小百科』という本の「ビシュト」の項目に「クウェート人は「男」になったときに、ビシュトをきる」とありました。ここでいう「男」とはたぶん「大人の男性」「ひとかどの人物」ということだと思います。クウェートには「عشت ولبست البشت」という諺があるそうです。「長生きして、ビシュトを着られるようになれ」といった意味になるでしょうか(「長生きして'isht」と「ビシュトal-bisht」が韻を踏んでいます)。この言葉は、子どもが成長して、結婚するようになるときに、いわれるのだそうです(以下はその『クウェート小辞典』のビシュトの項目)。

الموسوعة الكويتية المختصرة

 ちなみに、色は黒だけでなく、茶色い、グレー、白などがあります。一般に夏は薄い色、冬は濃い色が用いられるそうです。
 研究所の同僚とこの話をしているときに、イラン専門家が、映画『アラビアのロレンス』のなかでロレンスが、エジプトの名優オマル・シャリーフ演じるアリーからローブ(つまりビシュト)を与えられる場面があったと指摘してくれました。 これは、ロレンスがたった一人で、砂漠で行方不明になったベドウィンの男を救出するのに成功したときのことでした。このときから、ロレンスはベドウィンたちから「ロレンス」ではなく、名前にアラビア語の定冠詞をつけて「エル・オレンス」と呼ばれるようになり、さらにアリーからアラブの衣服と白いローブを与えられます。
 もちろん、これはフィクションですが、ロレンスがみずからのアラビアでの活動を回想した『知恵の七柱』にもアラブの反乱を率いたシャリーフ・フェイサル(のちのイラク国王)からアラブ服の着用を勧められ、さらに「白絹に黄金の刺繍をした立派な婚礼衣装」(平凡社東洋文庫版の邦訳、第1巻、174ページ)をもらったとあるので、映画の場面はこのあたりからヒントを得たのかもしれません。ちなみに英語の原本でも"wedding garments”とあって、この婚礼衣装がアラビア語で何と呼ばれていたかはわかりません。ただ、ロレンス自身は、アラブ服をきることで、アラブ社会、部族社会のなかにより溶け込みやすくなると述べています。フェイサル自身が、アラブ服の着用を勧めたというのも、ロレンスが彼らに敬意をもって受け入れらた証ともいえるかもしれません。
 メッシがビシュトをきたのち、西側の人たちから、そして日本からも、不満の声が聞こえたと上で述べました。しかし、中東からはそうした声はほとんど聞こえてきませんでした。当然、アラビア語メディアでも、ビシュトをきせるのは、敬意を示す意味があると指摘されていました。アラビア語の報道やソーシャルメディアでは敬意と親しみと祝福の意味を込めて「シェイフ・メッシ」の語が多く見つかりました。
 ちなみに、メディアではさっそくメッシの着用したビシュトの出元が報じられていました。報道によれば、カタルの数少ない観光地ともいえるドーハの「スーク・ワーキフ」にある、その名も「マハッル・サーレム・リルブシュート」という店です。1958年に設立され、代々サーレム家によって受け継がれた店で、「100%カタル製」だそうです。ただ、カタルの報道を見るかぎり、材料の布はカタル製ではないようです。高級なものは、ナジャフの布を使ったもので、ほかに日本製の布でできた婚礼のときによく使われるものがあるそうです。第3のものは、ナジャフ日本製(al-Najafi al-Yabani النجفي الياباني)と呼ばれるもので、メッシがきたのはまさにこれだそうです。
 ただし、「ナジャフ日本」が何を意味するのか記事からはわかりませんでした。ナジャフはイラクにあるシーア派の聖地ですが、ここで製造された布と日本製の布を掛け合わせたのでしょうか?となると、100%カタル製というのは誇大広告でしょう。記事のなかでは、布は100%海外からの輸入だけど、製造工程は100%カタル製だと書いてありました。
 いずれにせよ、メッシがきたビシュトの布に日本製が含まれていたのは間違いありません。つまり、ワールドカップ最高の晴れ舞台の中心には日本も立つことができていたわけです。日本でも、メッシがビシュトをきせられたことに腹を立てている人がたくさんいましたが、この事実を知れば、少しは気が休まるのではないでしょうか?
(保坂修司)


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