DEAR FRIENDS_自叙伝1960年
商店街は私のHOME TOWN
新宿区市谷薬王寺町。
私の生まれ育った町。
周辺には、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現防衛省)、フジテレビ(台場に移転)、女子医大、大日本印刷などがあった私のテリトリー。
四谷3丁目方面から牛込柳町を抜ける外苑東通りの小さな町。
自衛隊側から続く、薬王寺町から柳町にかけての通りは、まさに昭和の店々がつらなる商店街。
とにかく賑やかで活気がありました。今でも私が郊外型の住宅街が苦手なのは、この賑やかさの中で生活をしていたからです。
静けさは今でも苦手。
賑やかな商店街に身を置くと安心します。
父の祖父と兄が経営していた「宮尾製本株式会社」がこの薬王寺にあり、そこが私の育った環境であり、マイホーム。
この周辺には大日本印刷とのつながりで、印刷、製本業の小さな下請け工場が多かったけど、私の家の製本工場はそこそこ大きく、敷地には工場、食堂、従業員の住まい、父の兄の実家でもある母家、そして私の家が建っていました。
祖父のルーツは長野更科の出身で、何故、この地に根をおろしたのかはわからないけれど曽祖父の代に東京に居を構えたらしいです。最初の家は神楽坂のほうで、その後、工場を拡張するために薬王寺に移転したと父から聞いています。
朝は工場の音で目覚めます。
がっちゃん、がっちゃん。
規則正しいリズム。
たぶん工場は8時には始業していたと思います。すぐ近所の小学校に行く時には、すでに、がっちゃん、がっちゃんというリズムは鳴り響いていましたから。右肩上がりの高度成長期の日本。書籍や雑誌の創刊も多く、販売数もどんどん伸びて工場の景気はよかったと思います。いつも製本工場の機械は稼働していてたくさんの従業員さんが忙しそうに働いていました。
今現在の薬王寺町はとんでもないくらいの長い長〜い時間をかけての拡張工事が終わり、この外苑東通りにはびっしりと高いマンションが建ち並び、街はまったく姿を変えています。
この拡張工事計画は私が小学生の時代から浮上していたようです。
当時父が、やっとこの道が拡張するようだ言って喜んでいた様子を覚えています。とにかくこの通りは新宿方面に抜けるために利用する車が多く、ほぼ毎日渋滞するゾーンで、工場の運搬を受け持つ父にとっては朗報でした。
ですが、結局、拡張計画は私たちが住んでいた時には工事はほとんど進まなく、当初喜んでいた父も、その後、この町の土地を売ってしまい移転したので願いは叶わないままとなりました。
それにしてもほんとうに、つい最近!ですよ!この道路が工事を終えたのは。区画整理にそれほど時間がかかったということなのでしょうか。着工するかもと父が喜んだ時代から、ほぼ50年くらい?信じらないくらいの時間が経ちました。
下の画像は、古い時代の薬王寺町。
父は新宿
父は戦後、はたち過ぎに中国から戻り、この実家の製本業をすぐ担ったのではなく、かなり職をあれこれ変えたようで、銀行員、化粧品の営業マン、趣味が転じてカメラ屋までやったあと、祖父と兄の工場で運搬を担当する運転手で参入したようです。
彼は根っからの自由人で、趣味も多く、器用なんだけど、戦争の影響もあったのかなかなか自分に合う職業が見つけられす、見合い結婚をして家庭を持ったのをきっかけに、身近な実家の工場で働くことを決めたような感じだったと思います。
両親の結婚は、父31歳。母24歳の時。
7歳の年の差結婚でした。
母は浅草
母は浅草出身。
新宿山手と浅草下町で育ったふたりが、ちょうど間に位置する本郷の知り合いの取り持つ縁で出会ったようです。
姉が結婚の翌年に生まれ、その後、私が生まれる間に男の子が出来たようですが、流産か生まれて亡くなったか、そこは朧げに聞いただけなのでよくはわからないのですが、姉の誕生から5年を経て、私が産声をあげました。
さてさて、私、宮尾さんちの理絵ちゃんは1960年1月25日に生まれました。
母は出産のため浅草の実家に戻っていたようで、朝方4:30に浅草の病院で私は生まれました。
5歳上の姉は当時の記憶があるらしく、こたつに入って生まれるのを待ってウトウトしてたら、生まれたよ、という電話が入り、とても嬉しかったと大人になってから教えてくれました。
生まれたての写真がない!
しかし、なんと!
私には生まれたての写真がないのです。
そこはカメラ屋をやっていたこともある父、なのにぃ〜!まぁ、きっと当時なにか事情があったのでしょう。物心ついた頃に、自分の生まれたての赤ちゃんの写真がないのに気づいて、かなりショックを受けたことを覚えています。きっと私は橋の下から拾われたんだと思いましたよ。
私の写真はそれこそ2歳か3歳か、それが一番古い写真となります。
あえて父母に尋ねたことはなかったけど、まぁ、両親も二人目だし、写真を撮れなかった事情があるに違いないと思います。だけど姉の生まれたての写真はかなりあったので、小さな理絵ちゃんはいじけましたよ。それはどーなのよぉ〜、と。
でも、赤ちゃんの写真はなくても末娘の私はいつも一家の中心でした。
甘えん坊で、人懐っこくて、やんちゃで、落ち着きがなく、じっとしていられない子。小学生低学年の通信簿には必ず毎年落ち着きがない、と書かれていたくらいです。
自分でもあまり幼い頃の記憶がなく、始終、気が散漫でクルクルと世界を回っていたような感覚だったんだと思います。
それは未だに自分の中にある性格です。
落ち着かない。せわしない。
やんちゃ時代到来
そして、新宿の薬王寺町でやんちゃながら、父母姉にも可愛がられ、幼稚園、小学校とすくすくと育っていきます。
私の芸風、落ち着きのなさは、相変わらずで、幼稚園や小学校になると自分のテリトリーが少しずつ広がります。
お友だちも毎日できる。
外交的ですから誰ともすぐ仲良くなる。
公園で遊んでいればすぐ知らない子と仲良くなる。
とにかく毎日が楽しくて楽しくて、幼稚園や小学校が終わっても、楽しさはそのまま持続し続け、放課後も素直に家には帰らない。
帰宅せずに遊びに出かけて夕方まで帰らない。
親には常に心配をかけていたようです。
そして、冒険好き。
路地や抜け道が大好きで毎日違う道を探検します。その道が意外なところにつながっていると嬉しくなります。毎日が新しいドアを開けるような新鮮さに満ちていました。
よそ様のおうちにお邪魔するのも大好きで、たいてい、いつも帰り道にはお友だちの家に遊びに行っていた記憶があります。
おやつを頂いたり、そこのおうちの方が優しいと甘えて晩御飯もちゃっかり食べていたようで、のちに母にバレて激怒対象となります。
当時の我が家は建て増しで作った家ですごく変わっていたし、広くもなかったし、部屋もみんなで一緒みたいな家だったので、よそ様のちゃんとした家が憧れだったんです。
それこそドラマに出てくるような家が羨ましかった。いろいろなおうちにお邪魔して、その家を見てまわって感じるのが大好きでした。
思い出して描いてみた我が家。
父は器用だったので建て増しの部屋も自分で作ったりしてましたが、まぁ、そこは趣味レベルもあって、私は普通のおうちに住みたいなぁとずっと思っておりました。
自分の部屋が欲しい!と願っていましたよ。
いつも姉と一緒だったから。中、高になるとやっと自分の部屋を確保できましたけどね。
薬王寺の我が家は、本来の入り口になる道路に面している方を店舗貸ししていたので、家への出入りは常に祖父の実家前を抜け、工場と事務所の間を抜け、母家の裏庭を抜け、やっと家の玄関にたどり着くという経路でした。
祖父もまた父に似ていて、道楽者で、流木を集めたり、私が幼少期には裏庭に小屋があり、なんと雉を飼っていたという変わり者だった、というか趣味の人でしたかね…
推測ですけれど。
なんで雉なのかわからないけど網越しに大きな鳥が鳴いてたなぁという記憶が少しあります。
祖父とのクールな距離感
祖父は私が物心ついた時には脳溢血で倒れた後遺症で寝たきりでした。
口も聞けず、母家に挨拶に行くと「う〜う〜」と唸る声を発する常に怖い存在でした。可愛がって貰った記憶はないです。祖母も若い頃亡くなっているので、父方の祖父祖母との触れ合いの記憶はほとんどありません。
ものすごく小さい時には立派な髭を蓄えて和服姿の祖父と私は写真撮ってるんですけどね、
抱っことかじゃなくて、ただ整列している図でした。その距離感に祖父の気難しさを感じます。
母家の叔父叔母の間には、ふたりの兄弟の子どもがいて、私にとっては従兄弟だけど、幼稚園の時に彼らはすでに大学生。
そのあとは年も離れていたので留学やら下宿やらでふたりとも家を早めに出ていたし、幼い頃は近いところに住んでいたのにあまり記憶がありません。
でも、おふたりとも優秀で、おひとりはアメリカのマサチューセッツ工科大学に行かれ、日本の経済学者、筑波大学名誉教授となられております。
ネットで検索したら、あぁ、宮尾家の顔ね〜と記憶が少し戻りました。79歳ということで私とは17歳違いなんですね。それは交流はないかなぁ。
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