見出し画像

NEW ME_sayonaraは言わない_石巻

拭えない悲しみ

(今回のnoteはより多くの方に共有してほしいのでフリー記事と致しました。よろしくお願い致します)

石巻。
宮城県石巻市。
11年の年月。
拭えない悲しみ。
別れは突然に。
引き裂かれるような痛み。
後悔の念は去来し続ける。
未だに想いは果てない。

仙台から着いた石巻で見た空
メッセージが飛び込んでくる

必死だった。
前に進まないと。
亡くしてしまった命と
目の前にある命。

想像を絶する体験を胸に抱えながら
新たな歩みを始めている街、人。


海からは遠い場所でも津波はきました

震災遺構門脇小学校

ライブの前日に、ISHINOMAKI BUCHI ROCKの主催者である木村美輝さんが私たちを連れて行ってくれた震災遺構門脇小学校。

目の前に現れたかつて小学校であった建物は、周囲の建て直された家々とは対照的で、災害の傷痕を静かに伝えていました。
そこだけ時は止まったかのように。


新しく整備された街を走り
たどり着いた時間の止まったままの場所
この小学校を残すことには賛否両論あったとのこと。
街の皆さんにはつらい思い出かもしれない。
でも、これは震災のことを後に知るせるためにも
必要なのだと訪れて思いました。

6mにもおよぶ押し寄せる津波に校庭に停めてあった多数の車が流され、漏れ出したガソリンに引火し、2連並ぶ校舎の海側の校舎は炎に包まれました。消防庁によると門脇小学校の付近では56,100 ㎡もの土地が延焼し、津波と余震のために消火活動ができないまま火災は3日間継続したとのこと。


小学校内に入るとまず目に入るのはフロント側が潰れている消防車。
後ろにはフロントガラスも窓ガラスもなく潰れている白い乗用車。
子どもたちが元気に駆け回っていたであろう体育館に置かれた悲しい残像。

その先に続くのは震災のデータ。 
石巻の地形の説明と当時のことを話してくれる木村さん。

そして、歩き進むと、フェンス越しに見える光景。

焼けつき錆びつき瓦礫と化した学び舎であった教室。

窓のない四角い枠の先には今の整備された街の風景。

教室の写真はこの1枚しか撮れなかった。
苦しくて。


階段を上がり続く変わり果てた教室。
倒れた柱時計。


校舎につなげて造られたスペース。
海の方角へ続く
整備された風景。


ドキュメントフィルム



20分くらいのドキュメントフィルムを流すスポット。


映っているのは小学校屋上から撮影された
津波と火災の様子。

当時の被災状況、そして咄嗟の機転が利いた行動によって裏山に避難できた経緯を振り返りながら思いを語る先生、生徒さんたち。


まさにこの校舎のここ。
校舎2階。
裏山に飛び移るには距離がありました。
迫る津波火災の中、学校に残った教職員と住民さんたちが、
教室に残っていた教壇を橋にすることを思い立ち、
校舎から裏山へと避難することができたという場所です。


体育館に残っていた被災者もこの橋を見つけ脱出しました。



涙が止まりませんでした。
私は椅子に座って見ていたけど、その後ろで立って見ていたメンバー全員泣いていたと思います。

震災の日、唯一の救いは裏山に逃れたこと。
校庭にいたまま津波に飲まれてしまいたくさんの犠牲者が出た大川小学校と運命を大きく分けることになったことも胸にきました。


仮設住宅も残されて展示されていました。


当時のラジオの音声が聞こえます。
印象的なメッセージ
これも印象的だったメッセージ



見学を終える頃には夕暮れとなりました。


街で目にした言葉。


復興住宅






航空自衛隊松島基地のブルーインパルス



11月23日石巻のマルホンまきあーとテラス大ホール

前日、見学をして感じた思いを胸に、翌日11月23日は石巻のマルホンまきあーとテラス大ホールにてライブです。

朝は曇り
8時過ぎに会場に到着。


会場
ステージ


ロビー見学

会場についてからはロビーの展示を見て会場内と会場外を見学しました。


BUCHIは
小渕浜の「ぶち」から
このロゴはカッコいいです。


大漁旗
力強く
色彩も美しい
幡ヶ谷再生大学
各地で活動するボランティア組織さんです。
幡ヶ谷再生大学の軌跡
冊子とメッセージが書かれた旗


写真展もあり
今までのイベントのことを知ることができました。
東北ライブハウス大作戦ブース
PERSONZの木のプレート
制作者の方とパチリ
各出演者の方々のプレートを
ディスプレイ中のところでした。


ロビー。



とても利便性のよい会場。
ロッカーも箇所箇所に設置。


楽屋に戻り
ボランティアの冊子を読みました。


ご馳走様です


会場入りはリハがあったので8時と早かっただけにお腹が空いて….
お昼ご飯は中身のギッシリと詰まった」お弁当。それプラス、バックステージでお母さんたちが揚げてくれた牡蠣、茹でたツブ貝もお弁当に加わって、牡蠣汁もあり、素晴らしかった。

お弁当と牡蠣汁
あぁ、写真がいまいちだけど、
カキフライとツブ貝は最高のお味でした。


高校生さんの作ったマカロン。
可愛い。

ウォームアップ

ご馳走様のあとは、PERSONZの本番は15時過ぎくらいだからウォームアップタイム。本番まで3時間半くらいある時間。
最初は今日なにをMCで話そうかと、小一時間ほどソングリストを見つめながら言葉を書き留めたりして過ごし、14時過ぎにはストレッチを30分から40分くらい入念に。
その後はヘッドフォンをして20分くらい少し汗をかくくらいダンスエクササイズ。この時にはすでに衣装とブーツ履いてます。
身体は動かしておかないとね。ステージに出てすぐ稼働できるようにね。
その後、体が充分ほぐれたところで本番まで40分。
声出しを20分。
さぁ、スタンバイOK!
イベントも自分たちのワンマンライブの時も時間を見計らって本番前に絶対している儀式みたいなもの。




若い時は身体をほぐすことも、声を出すこともせずにステージに出てもなんとかなったものですが、今はそうはいきません。ちゃんと準備しないとね。


ライブスタート!

15時35分の定時にライブスタート。
7colorsから。


どれくらいのお客さんがどれくらいのパワーで迎えてくれるか、この1曲で感じとります。
石巻はとても素直に手をあげて私たちを迎えてくれました。

7colors -over the rainbow
Remember~eyes of children
sayonaraは言わない
Private Revolution
I AM THE BEST
DEAR FRIENDS

今回のリストは
6曲。
45分間の持ち時間、フルに曲をやりました。
MCは楽屋で考えていたことの半分しか話せなかった。


前日に見た時間の止まったままの小学校、それと真逆に新しく整備された道や家屋、走る車から海の方を眺めれば続く防波堤に阻まれて海は見えず、盛り土され、景色が変わってしまった石巻で、いったいどれほどのドラマがあり、悲しみがあり、愛があり、寄り添う心があったかを考えたら、目の前にいるお客さんに対して言葉ではなにも伝えられないと感じたから。


でも、全ての曲の歌詞が違った意味で広がり、今まで歌ってきた中でも、今、石巻に伝えたいことのメッセージになり、色合いがまるで違いました。

特に「sayonaraは言わない」は失ってしまった命や、突然の別れに向けて、〜もう2度と会えないなんて思いたくない、思わないから〜という力強い言葉となって伝わっていくような感覚を覚えました。

「DEAR FRIENDS」も、つらいことや悲しみの中、すぐ側に寄り添う心があるというダイレクトな歌詞ですから、たくさんの人が友だちや助けてくれた人を思い浮かべて聴いてくれたのではと感じました。

石巻のライブは、PERSONZの歌詞に深い意味をさらに加えて言葉が飛んでいった。



石巻BUCHI ROCKのHPでメッセージ

主催者の木村さんも石巻BUCHI ROCKのHPでメッセージを出されています。

各地で起きる災害やコロナウィルスの蔓延、世界で起こる紛争…故に疲弊する日常。
今をどう生きる?の問い。これからも続くであろう困難をどう生きるか?の問い。
未曾有の災害から11年、最大被災地石巻で生きる自分達が、歩みを止めずに進めたのは「音楽」があり「仲間」が居てくれたから・・・

その思いを、人間が生きることの力と生きるために必要な思いを最大被災地に住む自分達が生きることの力を音楽を通じ発信するために、ISHINOMAKI BUCHI ROCK 22を 開催します。
失った事や出来ないことを憂うのではなく、自分たちが大切にしていることに対し今できる最大を考えて・・・
今年も進みます。

ISHINOMAKI BUCHI ROCK実行委員会
代表 木村 美輝」
https://www.buchirock.com/

音楽には力がある。
支え合う仲間たちの心にも力がある。

石巻のイベントはSNS等では、今回は行けませんがというメッセージが多かったように思いました。
仙台からの道のりや、被災地というイメージも影響しているのではないかと感じましたが、だからこそ、イベントがあり、それを観に行ってみようかとなる原動力は必要と思いました。

ひとつのイベントを一生懸命に立ち上げてゆく団結するパワー。
悲しみの果てにある笑顔。
先日行った愛媛県の西条市もそうでしたが、イベンターが取り仕切るのではなく街の人が力を合わせて作り上げるイベントはほんとうに素晴らしい。

石巻に訪れる人をもっと増やしたいと思いました。
もちろん、東北は他にも同じように震災の痛みを抱えている街がたくさんあります。

今回はOAUとして参加されたBRAHMANさんは被災後すぐに駆けつけ、石巻のボランティアをしていらっしゃるので住民の皆さんとの結びつきも深い。会場のロビーに展示された今までの写真や置かれた小冊子の記録でその結びつきの深さを知りました。
他にも私たちをBUCHI ROCKに結びつけてくれた山本くんもボランティアをしていたし、しばらく振りに出会えた喜多條くんもずっと石巻との交流がある。

その力。
私たちも今だからこそ出来ること。
音楽でもっと勇気や希望を贈ることが出来るならと思います。

木村さん家族のドキュメンタリー

ライブの翌日、仙台に送ってくださった車中で木村さん家族のドキュメンタリーを見させて頂きました。


ドキュメントを車中で。
家族が揃った写真。


旅の帰りに知った木村さんたちご家族の悲しみ。

奥様とご長男を亡くされて、残された次男、ふたりの姉妹を育てていく木村さんが映っていました。

ご長男は享年16歳。
剣道を木村さんとやっていて、きっと元気で素直でキラキラと輝いていたに違いない。奥様も4人のお子さんを産み、育てて、毎日が家族とのめくるめく日々で飛ぶように鮮やかに過ぎていったに違いない。そして子どもさんたちの成長を何よりも見届けたかったんだと思います。
あまりにも早い別れ。

木村さんのような引き裂かれるような思いを胸にした家族は東北にはたくさんいらっしゃって、それぞれにドラマを持っていて、それぞれに違う痛みを抱えているのだと思います。拭おうとしても到底拭えない残像や傷痕。

私はもし、ひとときでも音楽がその心に届いて、その心が一瞬でも安まる時があればと思います。

そうゆう心のために音楽はあるんだと改めて確信しました。

その気持ちを感じさせて下さったイベントでした。
ありがとう。

また、笑顔で再会しましょう。
そうやってお互いが更にお互いを知れるような月日を重ねて行くことが大切なんだと思います。

来年、また会えたらと思います。
その時を信じてsayonaraは言わない…
そう思います。

p.s……印象的なアイコン

今回の旅にはマリア様を持ってきました。
祈り…


これは前後しますが、仙台に着いた時、
駅の屋上から見えた飛行機雲。


十字架のよう


石巻市を旅立つ時
ホテルの窓から撮った写真。
漁業の街のシンボルの魚や
ちょっと変形のスマイルマークにも見える。


新幹線の大宮から見えた富士山。
思わず木村さんにLINEしました❣️
石巻に旅立つ前日に
急に描きたくなったマリア様とドラゴン。

HOPE
希望…
それを描きたかったのか…と
石巻から帰って思いました。



最後に
最高のアイコンである
素晴らしきミュージシャンたちと👍

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?