掘り下げてって見えたもの4つ(その4)

【火曜更新・時間堂、年商1億プロジェクト09】ごきげんよう。時間堂P晴香です。きまぐれ曜日無視企画4回目。今回がいちばんハードかもしれないけど、書きます。書きたいから。

その4:本気だしてないだけ、は本当か

前職では、「やれなかったの?やらなかったの?」と問われて、やらなかったです、すみません、を繰り返していた。実際、24時間戦えるわけじゃないから、「やらなかった」時間をゼロにすることは不可能だ。だから、24時間常に本気で取り組まずに手を抜いた「やらなかった自分」を猛省し、次こそやれることを100%全部やりきります。って、いうのが、「ひとのせいにせずに責任を自分で持つ」ことだと思い込んでいた。が。

もしかしたら、「やらなかった」んじゃなくて「やれなかった」のかもしれない。それは能力の問題だけじゃなくて。

今の仕事でもしょっちゅう「準備が後手に回った」とか「計画が甘かった」とか、それらしい理由をつけて「やらなかった」ことに結論を持っていっている。で、「やらなかった」の裏側には、「やればできる」が潜んでいる。

やればできるは真実だ。そして、やらなかったらできないのも当然だ。でも。

「やればできる」と、「次はやる・やれる」は似て非なるものである。そして、「まだ本気出してないだけ」っていう出してない本気って、そもそも無いんじゃなかろうか。出せない本気は幻で、だれも見たことのない幽霊みたいなものかもしれない。

「やればできる」って、実は結構傲慢で不遜なことばなんじゃないか。

こないだも書いたけど、私は生まれつき経営の資質が備わっているわけでもないし、得意なこともあれば苦手なこともある、ごくごく普通の33歳である。超クリエイティブでもないし、特別あたまがいいわけでもない。それを認識しながら「やれなかったんじゃなくてやらなかっただけ」というのは、自己の中に矛盾を感じざるを得ない。

私の問題点は、「装う」ことだ。本人すら騙されるくらいの巧妙さで。

ちょっと手を抜いてしまっただけ、まだまだできることはあった、だから次こそ大丈夫。私がこう言うと、私は私に騙される。ほんとにそんな気がしてしまう。で、前向きでかっこいい「本当はできる自分」を装って、なんかちょっと安心するのだ。

前向きであることとか、自分を信じることそのものは決して悪いものじゃない。私が問題視しているのは、自分のしたことをニュートラルな姿勢で見ずに、なんでもかんでも「やらなかった」につなげて思考停止することだ。

子どもの頃から勉強が好きだった。それは、やればできるからだ。やればやっただけ成果がついてくる。大人になってからは料理とか掃除とかに夢中になっちゃう瞬間があって、やっぱりそれも構造が似ている。料理すれば何かしら料理されたものができあがるし、掃除すればどこかしらが必ず綺麗になるのだ。

その反動か、「勝てない勝負はしない」癖がついている。その自覚は結構前から持っていた。これを、「勝てない勝負でも果敢に挑戦する自分」に変えられたら劇的に世界が変わる気がするけど、それは相当高いハードルに思えて、その勝負に出ること自体が結構気が重い。せめて、「勝てない勝負だと思った自分」を認めて、それも一種の「やれない」なんだと認める意識は持ってみる。

本気出してないだけ、は真実だけど、失敗の理由には不適切だ。ここまでは腑に落ちた。

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曜日を無視して1億プロジェクトっぽくないことを書いた4回。前から書いてきた話に嘘はないけど、多分に装っていたとは思う。本音を書いているつもりで、意識上に上ってきた氷山の一角だけを切り取って書いているような。

私はユング的な意味で相当な内向型で、他者よりも自己への関心が偏って強い(内向と内気は別物です)。ほっといたらいくらでも自分のことを考えていられる。だから自己理解をしているつもりでいたのだけど、この1週間で掘って掘って掘りまくって、意識を向けてこなかった私を見つけた。

私の身体はまったくバレエに向いていない。硬いし、手足は長くないし、太くもないけど細くもない。でも、その特性を知っていて、どう動かしたらどう見えるのか、どう動かすのが自分にできる最も美しい動かし方なのか、という領域では、たぶん、世の平均点以上がとれると思う。しかも、結構な悪条件の揃った身体でもまぁまぁ踊れるっていうのは、もしかしたら世の中に希望を与えるかもしれない、くらいに思っている。

それとおんなじで、私は経営者として特別な才能があるわけじゃない。でも、平平凡凡な自分をよりよく知って、どう自分を使ったらどんなアウトプットが出るのか、成果を最大化できるのか、考えていこうと思う。

もしかしたら世の中に希望を与えるかもしれない、というのはオプションで。

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