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何かを解体して山に埋めてしまった。

 何かを解体して山に埋めてしまった。
 しかし、何を解体して山に埋めてしまったのかが分からない。何かを解体したこととそれを埋めたことは紛うことなき事実だ。何かを解体した感触もそれを埋めた感触も今だに手に残っている。解体や埋めるのに使った証拠品だってある。だが、何を解体して埋めたのがか皆目検討がつかない。この話題ではなによりも重要なポイントの筈なのにだ。
 もちろん一度は自分を疑う事もした。本当は何も解体していないし何も埋めていないのではないか。と。証拠品だと思っている鉈やツルハシやスコップも実は自分が「何かを解体して山に埋めてしまった」と思い込む為に用意された物なのではないか。と。だが、何故そんな事をする必要があるのだろうか? そこが分からない。自分は「何かを解体して山に埋めてしまった」しかし、何を解体して山に埋めたのかが分からない。と四六時中考えながらな生活するのは決して楽しい事ではない。それを自らの手で作り上げるなんて事、まともな人間はしない。つまり、私はまともな人間なのでそれをしない。
 となると、やはり私は実際に「何かを解体して山に埋めた」のだ。では、何を埋めたのか(これでは結局堂々巡りじゃないか?)。いや、堂々巡りなんかじゃない。何かを埋めたという事実をまず掴めたのだからそれで充分だ。
 相場では、解体して山に埋められるものといえばやはり人ということになる。殺人及び死体遺棄と呼ばれるやつだ。自分が殺人及び死体遺棄の犯人だと想定するのは些か気が進まないが、とりあえずはそのラインで考えてみる。もしも私が解体して山に埋めた何かが、人だということになると、当然次にそれは誰か? という問いが発生する。
 私が解体して山に埋めたその人は誰だろう。
 新聞やニュース(とは言ったが、実際殆どの記憶は映画やドラマから出てきているものだ)で見るに、解体されて山に埋められる人物として頻繁に登場するのは犯人の恋人か家族だと思う(大抵は犯人が被害者の恋人や家族だった。というお決まりのどんでん返し的なオチで知らされる訳だが)。
 しかし、私には恋人は居ないし、家族が暮らす実家から1200kmも離れたところで生活をしている。殺したいと思うほどの怒りが発生するぐらいのコミュニケーションを頻繁にとっている人物が多くないのだ(そもそも友達が少ないのだ)。アパートの隣人も(たしかに毎日うるさいから、いずれは殺し殺されの関係に発展しないとは言い切れないが、今のところまだ耐えることができている)深い関係ではないし、いつかの凶悪犯罪のような強姦殺人事件の被害者になるようなタレント力を持った住人は、家賃3万6000円の低セキュリティアパートには住んでいないだろう。
 となると、私が解体して山に埋めてしまった何かは、やはり人ではないということになる。それが分かれば一安心だ。とりあえず刑務所に入ることはないし、60近い両親に多額の賠償金を背負わせる心配もなくなった。
 うん、ではあとは何があるだろう。
 と考えてみることもできるが、そんなことをして何の意味があるだろう。殺人及び死体遺棄という最悪のケースではないことが分かった今、もうこれ以上真実を追求するのは利口だとは思えない。そもそも、なぜ私だけがこんなことを一生懸命考えなければならないのだろうか。誰だって「何かを解体して山に埋めてしまった」ことぐらいするだろうし、更にそれが「何」だったかをどうしても思い出せないことだってあるだろう。実際この世にはそういった問題が溢れていて、それでいて特に注目されることなく砂嵐のように流れる時間の波に飲まれて、いつの間にか「何も解体していないし、何も埋めていない」ことになるのだ。今だって我々が立っている地面をコピー用紙一枚分剥がせば、ありとあらゆる解体された何かが出土するかも知れないのだ。だけれどそんなことを気にして生きている人がどれほどいると言うのだろうか。
そんなことを気にして生きるくらいなら、街に溢れるゴミの一つでも拾ってみてはいかがだろうか。

渡辺浩平

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