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ちょっとした杞憂

久し振りに院の先生に出会いました。

出会いって不思議なもので、先生と出会わなかったら
院などという言葉は病院の院だったのですが。

新機械学習の時代が到来する、
いやもう来ているかもという思いが募りました。

機械学習(ティーチングマシン)の劇的な進化は
スマホという手のひらとに乗るほどの大きさの
機械による知識習得の可能性を
生成型AIによりさらに広げているようです。

人が困難を感じて、
人が実行することに多大な労力を必要とすることを
機械に学習させ人の負担感や多大な労力を軽減するために
利用することが機械学習の利点だとするなら、
教育工学的な発想を用いればその解決の方法は
見えてくるはずだと思ってきたのですが、
まだまだ難しい要素があるようです。

機械(ロボット)は人が命令を組み込んで動かすものだと、
小学校のプログラミング学習で教えてきました。アルゴリズムはプログラミングの基本ですから。

たとえそれが生成型と呼ばれるものでも「自ら多数の情報のなかから最適解を選んで示せ」という最初の命令があったはずです。

「生成型AI」の回答は「最適解」なので、より多くのデータを解析しないと「正解」にはたどり着かないわけで、「生成型AI」の答えは間違うこともあるというのは、そのためなのでしょう。

よりベターなものや平均化された答えは見つけることはできても
「独自なもの」「全く新しいもの」を答えることは、
まだ難しい段階、
というか、どんなプログラミングを人が入れればいいのかを模索している段階なのだろうな。

だから、「下手なプログラミング」をすればとんでもないことになることを知っている良心的な科学者はそうしたもの自体の研究をやめないと「原子爆弾」と同じ道を歩みかねないし、すでに歩んでいるんだという危機感があり、警鐘をならしているのだろう。。

一方、利用することで膨大な利益が得られることを想定する人たちもいるわけで、そうした人たちにとっては、研究に投資した資金を回収することが必要で、 巨大化したプラットフォームを運営する側の人たちはイデオロギーに関係なく利用することを進めているように思えます。

僕の知っている機械化への道は「人減らし」の道のりだった。
人件費の軽減と利便性の促進という理由で。

昔、鉄道には改札口に「人」がいた。切符販売口にも「人」がいた。
今は改札機と発券機がある。

昔、スーパーのレジには「人」がいた。小売店のの店先にも「人」がいた。
今はスーパーの無人化が進み、小売店は消えていく。

駅に降り駅弁を買うという楽しみは消え、機関車でトンネルのなかで窓を閉めるという不便さはなくなったが新幹線の窓は開かなくなった。

そのうち新幹線の社内販売も清掃もロボットがやってくれる時代になるのだろう。

デジタル化への道も「人減らし」を歩み始めている。
合理化と人の負担を軽減するという理由で。

昔、会社への苦情を受け付ける「人」がいた。今はスマホで対応する。

昔、物流工場や製鉄場には沢山の「人」がいた。
今は電子制御された工業用ロボットで対応が進んでいる。

家に荷物を配達するという仕事も、そのうち「ドローン」や「配達ロボット」の仕事になるかもしれない。

人の生命を大切にするという理由で戦争に「機械」や「科学」が利用されてきたことはみんなが知っているし、今ではそれが国家間の産業になっている。

病院も役所も「サービス」という機械化が進み
「対面」という希少価値が生まれ
付加価値としての対価や時間を要求している。

でも、「機械化」「デジタル化」することで「負担の軽減」「合理化」「便利さ」を手に入れることはできたけど、
「人」とふれあう時間が減ったことは忘れてしまっている。

「人」とふれあうスキルを学ぶ場所は
「社会」で減ってきているかもしれないし、
「家庭」でも減っているのでしょうか

小学校の社会科で、「働く人たちの苦労やそうしたことを克服する工夫」を学ぶ機会が減り、「国の産業や経済がいかに成長してきたか」に重点が移ったのはいつからだろうな。

シャッター商店街が大型スーバーの進出で増えた1990年頃かな。ちょうど学校のデジタル化(IT化)が始まった頃と同じだ。

そろそろ学校も「人減らし」の道を歩むかもしれない。

それぞれの先生が負担感や困難感を持ち、人件費が増え
志望者すら減少し、今まで担保できたサービスの維持が困難になるなら
民営化するか、先生のロボット化を進めることも
方向としては間違っていないのかもしれないと
考える人たちもいるかもしれない。

確かに、ただ膨大な知識のなかからよりベターな知識を選択し
子どもたちに伝達するだけなら、生成型 AIを組み込んで機械学習することで事足りる時代になっている。

子どもたちの利用する情報端末に生成型AIを組み込みそれを制御コントロールできる教員を育成すればできるのですが、今までの教員育成システム自体の根本的な見直しが必要であるはずで、単に人を集めればよいというものではないはずです。

OJTすら難しい環境ならなおさらですよね。

受験が学校教育のゴールなら
進学塾はもはや一大産業だから
積極的にアウトソーシングすればいい。

クラブ活動同様教科指導ではなく進学指導を重視するなら、今や進学塾の方が「専門家」であるように思う人たちもいるかもしれませんね。

問題は「生身の先生」に子どもや親は何を期待し、何を求め、「国や行政」はどのように答えようとしているのか、ではないでしょうか。

また、「生身の先生」が何を「生きがい」として「教職」を選んだのかということを子どもたちも親たちも国も行政も、もっと理解し共感していかないと、人型アンドロイドの先生がカウンセリングシステムと苦情処理窓口の整備されたバーチャル学校を闊歩する時代がやってくるように思えて仕方がないのです。

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