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16 死者とともに暮らしていくということ/葬式仏教の世界観③

 あの世から故人の霊が戻ってくる、それがお盆である。そして葬式仏教の宗教世界は、霊と私たちの交流、あの世とこの世の交流でなりたっている。

 ここでは霊という言葉を使ったが、霊にあたる事柄には、いくつもの呼び名がある。霊魂、魂、御霊、精霊、死霊、亡霊、幽霊、魂魄が代表的なものであろう。学問的にはそれぞれ微妙に定義が異なるが、ここでは特にそれを区別しない。おおざっぱに言えば、〈亡くなってからも存在する人格的な存在〉といったところだろうか。

 葬式仏教は、この霊の存在無しには成り立たない宗教である。葬儀にしろ、仏壇にしろ、お墓にしろ、霊の存在が前提になっている。

 例えば、お墓にお参りをする時、仏壇に手を合わせる時、人は必ずそこに、〈亡くなってからも存在する人格的な存在〉をイメージしているはずである。〈亡くなってからも存在する人格的な存在〉が存在することを疑いながら手を合わせている人はいない。

 もちろん、霊という言葉には違和感や嫌悪感を感じる人もいるであろう。霊という言葉に、霊感商法をイメージする人もいるだろうし、「うらめしや」の幽霊を連想する人もいるだろう。

 それも霊であるが、ここでは単に〈亡くなってからも存在する人格的な存在〉のことを言っていると考えて欲しい。

 それから浄土真宗では、教義上、霊魂の存在を認めないが、〈亡くなってからも存在する人格的な存在〉を否定することはないだろう。死んだら浄土に行くということは、〈亡くなってからも存在する人格的な存在〉があるということである。

 言葉は、色々な社会的背景の中で様々なイメージを持たれてしまうのはやむを得ない。どうしても故人の霊という言葉に違和感があるのなら、単に「故人」とか「死者」と言い換えてもいい。

 霊という言葉にマイナスのイメージを抱いている人も、霊なんか存在しないという意見の人も、仏壇やお墓に手を合わせる時には、〈亡くなってからも存在する人格的な存在〉をイメージしているはずだ。つまり言葉のとらえ方が人によって異なるだけで、みな、何かしらの人格的な存在を意識している。

 そして日本人は、この〈亡くなってからも存在する人格的な存在〉を霊とか魂などと呼んできたということである。日々の生活の中で当たり前のように霊の存在を意識してきたのである。

 一方あの世であるが、日本人の考える霊の居場所は実に多様である。人によって、地域によって、宗派によって異なるし、場合によっては同じ人であっても、時と場合によって、違った場所をイメージしている。

 仏教的には、浄土という場所がオーソドックスである。ところが実際には、草葉の陰、山の中、海の向こう、あるいは我々が暮らしている近くに漂うかの如く暮らしているなど、色んな場所が当たり前のように語られている。

 ただ現代で、一般の人にとっても最もなじみのある呼び名は、「あの世」である。これは便利な言葉で、前述の様々な場所を総括的にとらえることのできる言葉である。

 キリスト教のあの世にあたる天国という言葉も、現代の日本人は普通に使う言葉だ。また、仏壇やお墓に手を合わせている時、そこに故人がいると感じている人も少なくない。

 亡くなった人は、この世からあの世まで、至る所にいるのだと日本人は考えている。

 お坊さんの中には、葬式や法事の席で遺族から、「亡くなったお父さんはどこにいるのですか? お墓ですか、仏壇ですか、天国ですか」と聞かれて困ったという経験を持つ人が多い。

 そうした場合、「故人は浄土にいらっしゃいます。仏壇やお墓は依り代のようなもので、そこにいるわけではなく、そこを通して浄土にいる故人つながることができるのですよ」といった方向性で答えるお坊さんが多いようだ。

 またお坊さんの中には、天国という言葉を使われて、ショックを受ける人がいる。天国という言葉は、仏教のあの世でなく、キリスト教のあの世だからだ。さすがに「天国はキリスト教ですから、お父さんは天国にはいません」と頭ごなしに否定する人は少ないが、「天国ではなくて、浄土にいますよ」とやんわりと否定していることが多い。

 別にキリスト教を意識しながら「天国」という言葉を使っているわけではなく、単に「あの世」という意味で使っているだけなのだが、お坊さんはどうもそれを許せないらしい。

 あの世には、いろんな場所があり、いろんな名前がある。そして故人の霊は、あの世だけではなく、この世にもいる。死者のいる場所はとても曖昧なのである。

 しかし、ほとんどの人はそれに矛盾を感じていない。何となく、その場その場で、霊の存在をイメージしているだけである。お墓をお参りする時にはお墓に、仏壇をお参りする時は仏壇に、ふと故人を意識する時には自分の近くに、あるいはこの世から遠くはなれたあの世にいる。故人の霊はあらゆるところにいるのである。

 いい加減といったら、そうかもしれない。しかし人が霊を意識するのは理屈ではない。人の感性の部分が、霊を感じている。霊は「いる」と思った場所にいるのである。それは決して信仰として劣っているわけではない。死者とともに暮らしていく、深く、豊かで、やさしい信仰であると考えることもできる。そして、それが葬式仏教の宗教世界なのである。(続く)

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