見出し画像

鞠莉ママとの対峙シーンがスキ、という話を伝えたいだけのnote

じはんきです。
いよいよ5/2、私も大好きな映画である「ラブライブ!サンシャイン!! The School Idol Movie Over the Rainbow」が、NHK Eテレにて地上波初放送されますね!この日をどれだけ待ち望んだことか、というくらいずっと待っていました。

突然ですが、みなさんに問いかけます。
あなたの大好きな「ラブライブ!サンシャイン!!」の場面はどれですか?

鞠莉ちゃんと果南ちゃんが仲直りするところ?千歌ちゃんがアクロバティックな技を練習するところ?人によっていろいろベストは違うと思いますが、私が一番好きなのは「劇場版、イタリアで鞠莉ちゃんのお母さんと対峙するシーン」です。

このシーンをベストに挙げる人は、きっと私ぐらいかもしれません。そしてこの場面は、シリーズを通しても非常に珍しい表情、珍しい感情の目白押しです。それでもこのシーンを推すのは、私が「ラブライブ!」を好きになったきっかけがグッと詰まったシーンだからなのです。

どんなシーン?

「行方不明」になった3年生のみんなを探すため、イタリアまでやってきた1年生と2年生のみんな。やっとの思いで落ち合いますが、後をつけてきた鞠莉ちゃんのお母さんに居場所がバレてしまいます。
実は3年生が行方不明になっていたのは、鞠莉ちゃんが「お母さんに決めさせられた」結婚から逃れるためだったのでした。どちらにも譲れないもの、どちらにも大事な想いを抱え、お互いがぶつかりあいます。

はっきりと言います。
この一連のシーンに笑顔はありません。喜びや嬉しいという感情はありません。シリーズを通しても非常に珍しい、喜怒哀楽の中でも怒⇄哀のスイッチングが続きます。特にTVアニメではほとんど見せることのなかった「強い”怒“」の表情は、いつ見ても度肝を抜かれますね。

鞠莉ちゃんのお母さんは「彼女たちの軌跡」を否定していきますが、Aqoursのみんなはそれに対して「彼女たちの軌跡を否定する者」を「彼女たちなりのやり方」で「受け入れよう」としました。この辺をもうちょっと詳しく触れていきます。

鞠莉ママからの想い

「スクールアイドルなんてくだらない、あなたたちは何もなし遂げていない」とAqoursのみんなを突き放す鞠莉ちゃんのお母さん。しかしながら、後々発売された劇場版オフィシャルブックでは、この作品の監督を務めた酒井和男さんが彼女に関してこんなお話をしていました。

「千歌たちを家に迎えて、最初に「ありがとうございました」と深々と頭を下げているシーンがありますよね?そこで、ニュアンスはなんとなく感じてもらえたらうれしいです。鞠莉のお母さんには、実は鞠莉を本気でイタリアで捕まえてどうこうするよりも、見知らぬ誰かと本当に結婚させるつもりも、最初からないんです。(中略)鞠莉が高校生活を自分のやりたいように過ごすことを、果南やダイヤに目を光らせたりしつつも、なんだかんだ許してきたんですよね。だからこそ最後のケジメとして「あなたの価値をちゃんと見せてみなさい」と、ちゃんと投げかけてやらなきゃいけなかったのだと思います。ひとりの親として。

私も子供を設けるようになった時に、この目線がわかるようになるかもしれないのですが...これを聞いて彼女はAqoursの物語の「カベ」や「カセ」とか「ラスボス」みたいなものではなく、きっと今のセカイ、今のマチを生きる一人の人間なのだ、と強く思ったものです。

鞠莉ちゃんのお母さんは、Aqoursのみんなの完全な理解者、というわけでは決してありません。(それがことをややこしくしていますが...)彼女たちがぶつかって、(見た目上は)乗り越えられなかった壁を的確に指摘し、揺さぶっていくその姿は恐怖すら覚えます。ただその姿の中にも、一人の親として、自分の娘にできることはないか、ずっと探し回っていたのでしょうね。このシーンは上の話ををかみしめると、それが如実に分かる1シーンだったのです。

ヴィランとは誰のためのものなのか

よく言われるのが、「鞠莉ちゃんのお母さんはこの映画における悪役だ」みたいなもの。私自身は、鞠莉ちゃんのお母さんは悪役ではないと思っています。なぜなら、彼女は上で話したように、最初から意図的にAqoursの何かを奪おうとしていたわけではなかったからです。

個人のセカイ、周りのセカイ、そして見えるセカイ。Aqoursの周りには沼津やそこに生きる人たちをはじめ、たくさんのつながりにあふれています。助けたり、助けられたり、マチがヒントをくれたり。そんな絆を、卒業で離れていくかもしれなかったヒト、セカイ、マチとの絆をもう一度強くしたのがあの出来事だったのだと私は思うのです。

ディズニーの世界を彩ってきた者たちがそうであったように、ヴィランとは大きな「対立するカベ」のように思うかもしれません。結果的に彼女たちのカベになってしまったかもしれませんが、試そうとするつもりも、最初からなかったのかもしれませんね。

Aqoursがぶつけた「軌跡の証拠」

さてここからが本題。

怒⇄哀のスイッチ、とさっき触れましたが、Aqoursのみんなが「明確に」スイッチが切り替わった瞬間があります。

「学校を廃校から救うことはできなかった、鞠莉は海外での卒業の資格をもらえなかった、でもスクールアイドルは全うしたの、ラブライブを優勝したの」後、

「それが?」と鞠莉ちゃんのお母さんが答えた、その瞬間です。

彼女たちは確信に、そして自信に満ち溢れた目で、鞠莉のお母さんに怒りの表情を向けたのです。彼女たちは自らがたどってきた軌跡を、この時点で自分たちのものにしています。それによって生み出された繋がりの強さは、あがきまくって得た繋がりは、誰にも汚すことのできない強い輝きを持っていることを、すでに彼女たちは知っていたのです。

スクールアイドルは損得があるものではないと、スクールアイドルとは人と人とがつながっていくものだと、彼女たちはこの後行うライブで魅せることになりますが、すでに「この9人で」答えを知っていたからこそ、このことを証明することができたのだと私は思っています。

ソトの世界、絵の中のセカイ

さて。私たちこの世界に生きる人々は、作品の中の彼女たちの、いや、作品の中に生きるみんなの行動一つにとっても、ほめたりけなしたりすることができます。それは私たちが「外」にいるからだけではなく、これがあくまでも「作品だから」という理由でも説明できます。

私がこのシーンに惹かれた最大の理由、それは、どれだけ外から何かを言われても、彼女たちがそれを跳ね返せるだけの繋がりと、強さを持っていると示したシーンだからです。

彼女たちには彼女たちだけの、たった一つの宝物を持っています。それは私たちが「彼女たちの軌跡」と呼ぶものです。生き抜く中で得た経験、実感、想い。彼女たちがどんなに「新しいAqours」になろうとも、その宝物だけは決して消えることがありません。それを見事に、ダイレクトに伝えきったからこそ、私はこのシーンが大好きなのです。

この映画は沼津の、そしてセカイの記録映画としての面と、リアルとファンタジーを行き来する作品としての面があります。それが受け止めきれなくてどんなに辛い言葉をかけたとしても、それでも彼女たちは、いや、みんなはこの中で、一日一日を生きているのですから。

あなたの世界を、どうか大切に。

じはんき

この記事が参加している募集

#映画感想文

66,330件

#この街がすき

43,419件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?