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復讐スルハ我ニアリ

復讐、報復。
やめろという人は多いと思いますし、何も産まないて言う人もいます。
憎しみの連鎖を作るななんて事もいわれますね。

はたしてそうでしょうか?
復讐に至るまで、あるいは仕返し、報復なんてのはなんでそれを望むのかって考えると復讐やむなしと思う人も多いのではないでしょうか?

復讐、報復の決意

復讐や報復、仕返しなんてのは相当な事をやられて初めて決意されることですよね。
つまり、その人がもう我慢ならない、看過できない事を実際に被害もしくは痛みとして受けた事による言ってしまえば自身への癒やしの作業でもあったりします。

恨みを抱え、ずっと嫌な思いや苦しむよりもその相手に同じかソレ以上の事を望むのは実は自然な事で憎しみを悪とするよりそれを抱かせる事を悪としないといけないのではないか?と言う疑問は多かれ少なかれ、それは子どもでも普通に持っている部分なのですよね。

自分、あるいは自分の親しい人や大事な人、物、動物を傷つけられる事や壊される事での心の被害は見えないけれど相当に大きなモノなのです。

だから、復讐や報復、仕返しと言う事をしなければならない程の被害を与えた人は許される存在ではなくなってしまいます。
存在すら許したく無くなるのは、自分やその大事な人やモノ、ペット等を守る為の言ってしまえば愛情の喪失による怒りの激流とも言えます。

復讐は何も産まないか?

よくフィクション等でも「復讐は何も産まない!」ってな感じで復讐を止めさせようとしたり、相手を許す事を求めたりします。
しかし、復讐を止める事は出来なかったりしますし、これが主人公に関係する人物であるなら、なんとか説得するか何かの拍子に怒りを収めて悲しみの感情にて辞めるとかありますね。

でも本当に何も産まないのでしょうか?

実際には復讐や仕返し等をして相手が同じ様に苦しむか自分以上に苦しんだ時の爽快感が生まれます。
快感とも言えるかもしれませんが、相手を倒したもしくは自分以上に苦しめた事による爽快感により怒りの払拭や怨念の軽減が生まれる事はたしかです。

それが殺しとなってしまうと自身が罪に問われますが、それをしてでもする必要があるほどの恨みや怒り、怨嗟の炎はちっとやそっとでは消えず、復讐の成就により本懐を遂げたと言う歓び、爽快感によってその人の人生がまた戻ってくるとも言えるのはあったりします。

だから、復讐を遂げた人は一種清々しい、落ち着いた平穏な表情をしてるなんて話を耳にする事もあるか、と思います。

それほどの怨恨や怨嗟、恨みに怒りを持った相手を鎮めるのは容易な事ではないわけで説得でなんとかできる、とも思えません。

誰それは悲しむぞ!

または、○○はそんな事を望んでいないなんてのはフィクションでも現実でも結構よく使われる説得の言葉だと思います。
復讐は何も産まないと同様の常套句と言えるのですが、失った存在の気持なんて他者が代弁するのは実際には火に油を注いで火炎放射器で更に火を燃やすようなもん。
他人が何々の気持がわかるわけないだろ!の怒りで説得者すら被害者になってしまう事は有ったりしますので、カウンセリングやケアワーカー的な人が迂闊にきれいな言葉で話して、被害者やもしくは喪った大事なモノ、ペット等の気持を代弁すると言うのは実のところは自殺行為なんてのはあります。

ちゃんと調べきっていないですが、日本でもカウンセラーになるのがブームになったりカウンセラー名乗って安易に相談を受ける様な人が、復讐や報復を心に抱えた人に安易に綺麗事を言ってしまって、重傷を負う程に報復されたなんて事も結構あったとか。
心を扱う人でもカウンセラーがちゃんとした心理学でのカウンセラーではない独自資格カウンセラーによる復讐者の心を悪化させる事例も多く報告された事から、カウンセリングに対しての意識が変わったとも聞くには聞きますが、他者としての意見でないとならない事を被害者当事者ヅラしてやってしまうのはそれこそフィクションでもある「お前に何がわかる!!」の怒りを追加するだけなんですよね。

復讐は憎しみの連鎖を産む?

これもまた、よくある説得セリフですけど加害者の親族が苦しみ憎しみを持つならそれもまた良し、だったりします。

復讐者には加害者の親族もまた敵なのです。

だから相手が自分を憎むと言う事は、加害者親族が自分と同じ立場もしくは被害者遺族と同じ立場になった事で復讐者の復讐は完成するとも言えるのですね。
実際、なんで自分までと言う理不尽を感じる復讐された側の親族や関係者の気持はあると思いますが、それこそが加害者が被害者と被害者親族や関係者に与えた気持で自分達も加害者に迷惑を被ってるなんていう言い分は通用しないのです。

相手の関係者や親族が憎しみに取り込まれてこその復讐とも言える訳でして喪った自分の大事を少しでも味合わせる事ができればそれが歓びってな感じになります。

だから憎しみの連鎖なんて言うのは全く無意味でして、自分は既に憎しみの塊なんですし相手が報復してきたらそれもまた良し、となってる訳です。
既に消えることのない憎しみを抱えた存在には憎しみを向けられる事があっても屁でもないのです。

故に復讐するは、我にあり

復讐する決意、報復の覚悟を決めた人はそこまでの闇を抱えて生きていくのですから生半可な事ではその行動を止める事はできないでしょう。
相手を倒すまで、また相手に味方する全てを倒すまでは止まりません。

復讐をしなければ生けないのですからね。

復讐者も悪だと言うのは確かにそうかもしれませんが、言い換えれば最初に強烈苛烈な悪と言う放射能に汚染されたのです。
相手は悪意によって作られた復讐者と言うゴジラかアンギラスもしくはラドン。
同じ様な悪と言う放射能を浴びても復讐を決意しない様な人出ない限り、その人を説得する事は不可能ですが、しかしながら今の日本にはそんなモスラみたいな人はいません。

死刑反対論者であっても、自分が被害者親族等の立場になると相手の死刑を望む様になるのに、相手を許してあげましょうなんてナンセンスです。
ましてや相手も社会の被害者なんて言っても無意味。
むしろ禁句で、社会の被害を受けているのは万民共通なんですよね。
だからそんな事を言ってしまうと、誰だって同じなのに加害者だけが被害を受けている訳じゃないし他人に当たって良い訳じゃないとなってしまうだけ。

綺麗事では復讐心を消す事なんて不可能ですし、実際に被害を受けてない人の他人事意見なんて恨みの矛先を向けられるだけの事なのですよね。
そして第三者の無責任な発言はその第三者もまた討伐するべき敵となるだけなのです。

法で止められているけどね

と言うのはありましても報復に値すべき刑罰でなかったりすると怒りはとまらんのです。

特に最近は精神鑑定を受けさせたり変な答弁をさせて罪を免れようとさせる弁護士も目立ち、犯人に犯罪と反省を自覚させる事すらしない、加害者有利の社会って印象が強くなっています。

人権という言葉も使われてしまいますが、被害者の人権を考えてないの批判もある通り、加害者を犯罪者にしない、法の目をくぐる事を前提としているかのような状態が報道の目に触れる中では法が止めようがなんだろうが無意味。
加害者が許されるならば自分がやっても同じなのだ、刑罰が課されないなら自分の心が平穏になる事はない、と言う意識が出来てしまえばもうどうにもならんのですよね。

それこそ殺人事件の加害者に対してドラえもんがなんて言い訳させるような弁護士が居た事も情報として残っているのですし、今も加害者にも人権がとか生きる権利がと言う意見をもって犯罪者を犯罪者ではなく反省も無いままに外にだそうとしてしまう様な騒ぎも起こります。

だから法はもっとしっかりとちゃんと運営される必要はあるし犯罪は犯罪だとして加害者に自覚させ反省させる弁護士が出てこないと法で禁止された復讐なんて犯罪者の為のものとして仇討ちをする人が増えていくってなるだけかもしれません。

無責任な人道主義をなくせば…

人道主義は加害者を助ける為にのみ使われている印象が強いですが、被害者救済をもっと主軸に置くことが必要になっていると思います。

冤罪が、とか犯罪をした人にも権利が以前に被害者のケアと権利の回復、時には心の中の怨嗟を消すために刑罰を見るなんてのも必要かもしれません。

それほどをしても、復讐の炎は消えないけれど法律も頑張っていると思って我慢できる様になる事もあるにはあります。

ただ、あくまで加害者の社会復帰(犯罪でなくとも、いじめでも)のみを主眼に置きすぎている事、少年犯罪でも街やコミュニテイで受け入れてあげてというのが悪目立ちする今の状況では、犯罪でもある復讐に手を染めるハードルはどんどん下がっていると言う事も念頭に置かないといけないのであって、被害者に対する人道主義もちゃんとしていかないといけないよね、と思う状況が今の社会にあると思うのです。

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