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当たり前って、実は当たり前ではない

学校行事には、保護者や家族はつきものだ。
運動会や発表会、合唱コンクール、文化祭など、多くの行事がある。

教員をしていると、保護者だけでなく、クラスの生徒の兄弟にも会うことがある。
特別支援学校に勤めているので、兄や姉、弟や妹が障がい児・者ということだ。

論文等で、「障がい児・者のきょうだい」ということが取り上げられることが多い。そのような状況の人を「きょうだい児」と呼ぶ。

自分は、「子どもが障がいという親の立場」と「兄弟に障がい児・者がいる」ということは、家族という点で同じだが、違いがあると思っている。

生まれた時から「障がい」というものに向き合うのは、辛いものだ。
自分も思う。兄弟に障がい児・者がいるからだ。

自分は、「普通」という言葉がどれだけありがたいのかを痛感した。
みんなと同じということがどれだけ安心を与えるのか。

論文では、きょうだい児は、精神的な発達が早いとされている。
それは、自分を後回しにしなくてはいけない、我慢しなくてはいけないことがあるからだ。

自然と自分の感情を抑える。
そして、人との違いに困惑する。

思考が未熟だった子ども頃の自分にとって、決して楽な状況ではなかった。

当時を思い出すと、自分と向き合う時間が短かったように感じる。
それよりも周りと向き合うことに、守ることで必死だった。

大人になると、「障がい」に対しての理解者が増える。
そんな状況になったからこそ、今では少し楽になっている。

でも、子どものころは、とてもセンシティブな話題だ。
「子どものころの人とは違う」は、思っている以上に大きい。

なんでみんなと一緒になれないのだろう。
兄弟の話を何の抵抗もなく話す。兄弟のことを聞かれても構えない。
そんな風になりたかった。

みんなが当たり前にしていることをしたかった。

「当たり前は当たり前じゃないんだ」「普通であることは、ありがたいことなんだ」
これが、小学校1年生の自分が思ったことだ。

そんなことを思っていた自分は、少し冷めた部分もあったと思う。

今ここにきて、自分が向き合ってこなかったことに直面している。
けしてそれは、障がいのある兄弟がいたからではない。
ただ自分が向き合えなかっただけだ。

一人で抱えるのは、辛い。
同じ境遇の人が周りにいないこともしんどい。

今思うのは、同じような思いをしているきょうだい児がいるのなら、その人のサポートができればと思う。

同じ境遇の人がいると知れるだけでも、少し心が軽くなるのではないだろうか。
少なくとも、あの時の自分にはそんな存在が欲しかった。


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