【物語】 『ショコラ』 <テキスト版>
大人のほろ苦く甘い物語『ショコラ』。
先日、Stand.fmで、朗読(音声)版を公開しました。
こちらは、全4話・テキスト版になります。
『ショコラ』(作・Jidak)
第1話 「オリンピックイヤーは、あなたと…」
「ああ、30分も早く着いちゃった…」
時計の針は、午後5時半を過ぎたところ。菜摘は張り切りすぎている自分がちょっと恥ずかしかった。
水野菜摘(なつみ)は39歳。フリーランスで翻訳の仕事をしている。
商社勤務の夫・悟と、今年11歳になる一人娘の祐奈(ゆうな)と3人で暮らしている。
「ママ、今日のオリンピック、楽しんで来てね」
朝、小学校へ出かける前、靴を履きながら祐奈が声をかけた。
「だから、ママはオリンピック出ないんだってば」
そう言いながら、ウキウキした感じが出過ぎてないか、少し不安になる。
「だってパパが言ってたよ。今日はママ、オリンピックだから遅くなるんだよって」
「まったくパパまで。あ、カレー、作っとくからあっためて食べてね」
「はーい」
今夜は、大学の時のゼミのプチ同窓会があるのだ。
この同窓会は4年間隔で開催されていて、いつもちょっとドキドキする。
外での食事は最近では本当に少なくなっていたが、今夜は久しぶりに外へ出る。
一番最初の開催は、卒業から4年後の2006年の2月だった。
その年は、イタリアのトリノで冬季オリンピックが開催された年。
同窓会の第一回目として集まったのが、たまたまオリンピックまっただ中の2月だったのだが、幹事役の祐二が、
「お、そうだ! 次もさ、冬季オリンピックの年に集まるっての、どうかな? 4年後に!」
と言い出した。
祐二は大学の時から何かにつけてまとめ役を買って出るタイプ。その場の全員がすぐに賛同して、それからゼミ同窓会、別名’オリンピック会’が、4年ごとに開催されるようになったのだった。
今年、2022年の冬季オリンピックは、北京で開催された。菜摘たちのオリンピック会は、トリノの年から順当に回を重ねて、今回5回目となる。
ゼミのメンバーは7人。男4、女3。
オリンピック会は、2月の第2日曜日、18時頃から神楽坂のバルで。事前確認も出欠連絡もしない。
覚えている人が、自由な感じで気楽に集まれればいいねって言いながら、このルールが決まった。
こんなゆるいルールなのに、これまでの4回、一人も落ちることなく全員参加。
でも、祐二が前もってお店に予約を毎回入れてくれることも、みんな知っている。祐二が照れるので、誰もお礼とか言わない。
4年おきの開催がなんとも絶妙だ、と菜摘は思う。
4年もあれば、どんな人にも、それなりになかなかな変化が起きる。
集まってすぐは、大学の頃の思い出話とか冗談とか軽いトーンで始まるのだが、22時を回る頃は、お互いの物語をしっとり聞く感じの、密度の濃い時間へと変わっている。
普段だったら話さないようなことまで、このメンバーなら話せる、そんな感じになるのは、4年おき、というのがうまく効いているのかも、とも思う。
それに、「冬季オリンピックがある年に集まる」と覚えておけば間違えることはない。
オリンピック会開催以降、菜摘はオリンピックのメダルの数が気になり始めた。それに開催都市までスラスラ言えるようになっている。
「トリノ、バンクーバーでしょ、で、その次がソチ、それからええと平昌で、今回は北京、か」。
そんな自分にちょっと笑ってしまう。
オリンピックと自分を重ね合わせる日が来るなんて、と、菜摘はなんとなく楽しい気持ちになる。
それに。
4年ごとに、北村篤史(あつし)に会える。
菜摘にとって、それはかなり嬉しいことでもあった。
篤史は、上野に三代続く和菓子屋の長男。
卒業後は銀行に就職していたが、4年前に会った時は、家を継ぐことにしたと話していた。菜摘と同じ頃結婚しているが、どうやら子供はいないようだ。
2人ともシャイで、知り合った当時、あまりうまく話せなかった。
だが大学3年の時、学祭の実行委員を一緒にしたことを機に、急速に親しくなった。
みんなと一緒にいても、できれば二人で過ごしたいなと菜摘は思うようになっていたし、メールもちょっとずつ往復の回数が多くなってはいた。
それでも、内容は事務的なことがメインで、お互いのことどう思ってるとか、そんな話はしていない。
「好き」と言った記憶はない。
「つきあおう」と言われてもない。
なんだろう、この関係。
何でもないかもしれないけど、何でもないと言い切れるかは微妙、と思っていた。それはたぶん、お互い、そう。
学祭が終わってからはあまり連絡をとりあっていなかったが、ある日、「今日一緒に帰れないかな」と、篤史からメールが来た。
(第1話 終わり)
第2話 「あの、雨の日」
菜摘はどきどきしながら待ち合せ場所に向かうと、そぼ降る雨の中
篤史がいた。
見知らぬ女性と仲良さそうに話している篤史が。
「え、なんで…」
菜摘はちょっと混乱した。
「え、あれ、今日じゃなかったっけ? ちょ、どうしよう。ひとまず行くべき? でも…」
ちょっと離れたところで立ち止まって迷った。
考えがまとまらない。
そんな菜摘に篤史が気づいた。そしてあわててこちらに来ようとした。でも菜摘は、反射的に走ってその場を逃げ出した。
「なんで逃げ出しちゃったんだろう、私」
あれから何度も何度も、菜摘は自分に問いかけていた。
でも、うまく答えは見つからない。
きっと、何かを期待した自分が恥ずかしかったんだと思う。
自分なんかに特別な思いを抱いてるわけがない。
それがはっきりわかってしまうのがいやだったのかもしれない。
いや、本当は、どうなのかもわからないのに、白黒つくのがひたすら怖かった。そういうことだったんだろうなと、今はわかる。
その後は、何もなかったようにゼミ仲間として普通に接し、あの時のことに触れないまま卒業を迎えた。
卒業後は4年ごとに元ゼミ仲間として会う、それだけの関係。
そう、ただそれだけ。
でも、今も、菜摘はあの時のことを時々思い出す。
あの時、逃げる必要なんかなかった。
篤史は、私に追いついて、何て言うつもりだったのだろうか。
何か聞けてたら、未来は、今は、変わっていたのだろうか。
とはいえ、今の暮らしに不満はない。
新卒で商社に入り、そこで知り合った夫と結婚。
4年前に独立して始めた翻訳業も順調だ。
娘もとても可愛い。
そして、夫はシンガポールに本社がある企業への転職が決まり、この春から一家でシンガポールへの移住することになった。
翻訳はどこでもできるし、娘の教育のことを考えるとシンガポールは最適だ、と菜摘は思う。
でも。
今後いつ帰国できるのか、全くわからない。
当然、オリンピック会にも今までのように参加はできない。
篤史に会うのは、今回が最後かもしれない。
オリンピック会でも、特に2人だけで話をするわけでもない。
ゼミ仲間の一人として、普通に楽しくその時間を過ごす。
ただそれだけ。
電話番号も知らない。
聞いても不思議はないのに、なんとなく聞くタイミングを逃し続けていた。
「このぐらいのスパンで会うのが一番いいよね」
「日常と切り離された、贅沢な時間だよね」
帰り際、みんなが口々にそう言う。
普段は連絡を取り合わないからこその、濃密で、ていねいなやりとりが7人の間で交わされる、心地良い時間。
本当に愛しい時間、仲間。
この関係性が大事だから、篤史と特別なやりとりはなくていい、これまで菜摘はそう思っていた。
でも。
今回が最後かもしれない。
そう思うと、篤史と少し話がしたい、できないかな。菜摘はそう思った。
(第2話 終わり)
第3話 「大人だから。大人なのに。」
篤史は、これまで毎回一番最後にやってきた。
何時スタートと決まってるわけではないが、
「はい、また篤史は遅刻ー」
と言われている。
今回、ちょっと早めに行ったところで、篤史と二人で話せるわけでもない。
それでも菜摘は、なんとなく早めにバルに着くようにした。
心の準備。
早めに行くことで、いつもとは違う覚悟を持て、と自分に言い聞かせたかった。
バッグには、昨日銀座で求めたチョコが入っている。
スペインのショコラティエのチョコ。
毎年この時期10日間だけ特別に出店しているのだ。
3年前に初めて食べた時の興奮が、今も鮮明に蘇る。
ガンッと舌の奥にショックがあり、その後鼻へと抜けていく奥行きのあるフルーティな香り。
夫に贈ったのだが、感想を聞く前に食べ終わっていて、少しがっかりしたのを覚えている。
売り場では、年に一度しか買えないチョコレートたちが、気品高く菜摘を誘惑した。
「これ。これにしよう」
四角くて、ただただシンプルな、一番そっけないフォルムのハイカカオのチョコ。そっけないからこそ、作り手のプライドのようなものがにじみ出ている、そう菜摘は感じた。
ラッピングは、あっさりと、色みもおさえたものにした。
中途半端すぎる。
菜摘は自分で自分を笑った。
プレゼントなのに、なるべくひっそりと地味にしたいだなんて。
だって。
渡せるかどうかわからない。
渡すべきかもわからない。
でも、何か、どうにか自分の気持ちに区切りをつけたい。
前を向きたい気持ちと言い訳がごちゃごちゃになりながら、菜摘はそう思った。
菜摘が席に着いたと同時に現れたのは篤史だった。
「え、あれ? 早いね、篤史。今回は」
予定では、一人でしばらく心の準備をするはずだった。
ペースが狂ってしまった。
ドキドキしてしまっているのはそのせいだ、菜摘はそう思った。
「やっぱり、一番に来てた。菜摘」
「ん?」
「あ、いや、俺だってちゃんと来れるよって、最後ぐらいはね」
え、今、最後って言った?
え、私が一番に来るって知ってたの?
皆が揃うまであと30分。
話すなら今しかない。
菜摘は、春からシンガポールへ移住すること、オリンピック会への参加は今回が最後かもしれないことを、自分でもびっくりするほど冷静に伝えた。
だからだめなんだよね、菜摘は思った。
本当はもっといろいろ言いたいのに、思ってるのに、何一つ伝わってないな、これじゃ。
言葉に気持ちが乗らないタイプである自分に絶望した。
「マジか… 同じだ。たぶん俺もそう、最後かなって、今回が」
驚いたことに篤史がそう言った。
家業を継いでからの4年間、和菓子の新しいスタイルを様々に発信していて、その取り組みがフランスの有名菓子工房の目に留まったとのことだった。
そして、業務提携の契約を締結させ、この夏からパリに拠点を移す、そう篤史は言った。
「今日で卒業組だね、俺たち。びっくり。すごい偶然」
東京からいなくなる。私も篤史も。
区切りとしては最高だ。
今なら渡せる、そう思った。
「あ、これ、よかったら。おいしそうだったからつい買っちゃった」
なるべく平静を装った。
なんとなく買っただけ、そう振る舞った。
目の前に、固まったまま動かない篤史がいた。
「え、どうしたの? やだ、何? ただのチョコだよ。あ、バレンタインデーとかじゃないから。あ、違うか、バレンタインデーだからか。あれ、何か変なこと言ってるね、私」
ピュアなリアクションを見せる篤史を見て、菜摘もテンパってしまった。
おかしい。
大人はもっとさりげなくできるはずなのに。
長い間、篤史のことだけを思って苦しんだわけでもないのに。
やだな。なんか、すごい女子やってるな、私。
「あ、いや、あの俺も、これ…」
(第3話 終わり)
最終話 「ドキドキとは。大人とは。」
篤史は、赤い紙でラッピングされた、手のひらに乗るくらいの小さな立方体をすっと差し出した。
「今度パリで売リ出す予定の抹茶のチョコ。これがフランスでの俺の勝負チョコ。菜摘に食べてほしくて」
今度は菜摘が固まる番だった。
「そんな…」と言った後、言葉が続かない。
別に告白されたわけじゃないのに。
大人なんだから、落ち着けバカ。
そう思うのに、洒落た返しが何一つ浮かばない。
チョコを見つめたまま、菜摘は動けないでいた。
篤史が急に笑い出した。
「なんだろうね、俺たち。ぎこちなくチョコ贈り合ってさ。変だよね。何してるんだろうね」
その言葉でふと我に返った。
顔を上げた。ニコニコ顔の篤史がそこにいた。
「ほんと、笑っちゃうね。ありがとう。心して食べるよ、篤史の’今’が詰まったチョコ。あ、でももったいないから少しの間飾っとこうかな」
「だめ、飾っちゃだめ。ガナッシュだから早めに食べて! すぐ食べないなら冷蔵保存して!」
「あ、はい、すいません」
楽しい。
篤史との時間、ものすごく楽しい。
何か、間違っちゃったのかな、私たち。
もう少し何かできたのかな、あの時。
菜摘は、つい振り返りモードになる。
悲しいなって、瞬間的によぎったその時、
「いいね、大人になるって。こういう時間を持てるんだね」
と、篤史が言った。
いいのか。
これは、いい時間なのか。
「俺、ずっと引っかかってて、あの雨の日のこと。あ、菜摘は忘れちゃってるかな? あ、それはどっちでもいいんだけどさ。俺さ、あの時なんですぐ言えなかったんだろうって思ってたんだ。誤解だよとか、なんで行っちゃったのとか。でも結果的によかった、あれで。今、すごい楽しいから」
そうか、パキッとクリアにするだけが正解じゃないのか、菜摘は思った。
今、お互い充実した毎日を送っている。
そしてこうして会った時には心から楽しいと思える。
最高だ。
これ以上、何を望むのか。
「あ、聞いてもいい?」
と篤史が言った。
「あのさ、チョコ、俺にだけ? 他の奴らにも?」
どう言うべきか、菜摘は迷った。
しれっとごまかすのが大人の流儀なんじゃないか…
「あ、えと、篤史だけ、に。…あ、こちらからは以上です」
ごまかせなかった。やばい。
恥ずかしい。
あれ、大人モードどこ行った?
ちょっと戻ってきて。
やばい。
「そか。俺も。菜摘だけに」
え…?
困る。だいぶ困る。
ああ、これ以上のドキドキ感は無理。
もう勘弁してください。
その時、バルの扉が開いて、他メンバー5人が一斉に入ってきた。
「お、もう来てたのか? 今そこで俺ら一緒になって」
「あ、うん。ねぇ、篤史が早くてさ、びっくりしちゃった」
菜摘はそういいながら、篤史からもらったショコラをさっとバッグにしまった。「だから言っただろ。俺はやればできる子だから!」
そう言いながら、篤史も菜摘が渡したスペインのショコラをさっと背中の後ろに隠した。
7人全員が揃う最後のオリンピック会、ただいま開幕。
(終わり)
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