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30年前のウクライナ訪問・思い出・経験・印象2、オデッサ1、一家との出会い

前回 ”30年前のウクライナ訪問・思い出・経験・印象1”では、
モスクワ → キエフ → リヴォフ だったが、今回は、

リヴォフを発ってオデッサに到着しある家族との出会いまで…


オデッサはこの地図でキエフの真南 ~赤〇で示した

夜行列車

夜行寝台列車 ~ ”共通”車両を利用

寒~いリヴォフから乗り込んだ夜行列車は、節約を兼ねて
初めてコンパートメントなし、指定席なしの”共通”車両を選んだ。

むき出しの2段ベッドタイプ、その上に荷物を置く棚。
通路側にも2段ベッド。(通路側下段は昼間はテーブル椅子)

下にネットから借りた写真を貼りつけたが、
当時はもーっとずーーーっと汚かった。


ネットから拝借
https://vesti.ua/wp-content/uploads/2018/07/296263.jpeg

背の高い男性は、足が入りきらないので、通路にニョキっと飛び出す。
通路を歩くときは要注意である。
ロシアのベッドは幅も狭い。
  (約35年前の日本でも、安い寝台車を利用した事があるが、
   もっと幅広く、通路に壁もあり、仕切りのカーテンもついていた。)

ネットから拝借
https://golos.ua/news/omelyan-rasskazal-kogda-v-ukraine-ischeznut-platskartnye-vagony?__cf_chl_tk=h2XRYtxBBoTgcJFH0CYzVZ8L4v9O3D9UJw5RPzAyxZQ-1677906472-0-gaNycGzNCmU

ウクライナの列車のサイトからもらった画像だが、そこには
この類の車両は無くす、とあったので、見れなくなるかもしれない。



兵隊たち


初夏だし、驚きの混みようで、全く空いている場所がなかった。
一番奥まで進むと先客がいたが、戻るのも面倒なので間借りする。
どこもいっぱいだから仕方ない。
そこには4,5人のミリタリー服に身を包んだ若者たちが陣取っていた。

コスプレではない!
兵役に向かう若者たちだった。
オデッサへ行くのなら海軍だろうか…
自分も既に約2週間の旅疲れで、気が回らず聞かなかった。

でも、こう言ってたのは覚えている。
「今日が最後の自由な夜だ~。
明日からは、号令で起きて、号令で寝るんだ…」


近くにはもちろん彼ら以外に様々な他の人達もいた。
夜中にうとうとしていると、近く席のおじさんが
「ふぅん、日本人ねぇ…」つぶやいているのが聞こえた。
共通車両の乗客は、停車駅も多めで途中で乗って途中で降りる、
中距離の人も多かったので、車内は薄明るかった。



オデッサ

オデッサの名前の由来:
この地にかつて古代ギリシアの植民都市オデッソス(古希: Ὀδησσός)が
存在したという誤認に基づくと考えられている(Wikiから引用)

オデッサ駅着

オデッサに着く。
パッと太陽が輝き、色彩豊かだった。

雨で寒かった(多分10℃以下)リヴォフの翌日。
暖かくて明るい黒海沿岸の町オデッサは大違いだった。

この気候の違いだけでも、心がワクワク。
乗客たちは駅でほとんどさよならも言わずに散り散りになった。

新しい出会い・滞在する家

朝早すぎない時間まで駅を探検してから、
キエフで合った女性の夫Vさんに電話する。
「ちょうど昨日妻から連絡貰ったよ」のこと。
落ち合って路面電車に乗り一緒に友達の家へ。

黒海が見える立地

大通りの停留所から横道に入ってしばらく歩くとが見えてきた。
初めての黒海

到着したそこはの見える最高の場所だった。
高台になっている。
(町自体が高台の上にある?台地?)

道の片側に空き地、その先は緩やかな林の斜面。
広い林の下り坂がずーっと海岸近くまで続いている。
縦に海まで下る道の、その途中に遊歩道や公園もあった。

道の反対側は2階建ての古風な建物が並んでいた。
帝政時代からあったような、2階建てのお屋敷ような建物。
道からは林と海が見える。


一家との出会い

Vさんはその1軒の前で立ち止まった。
そこに住む友達のサーシャとオーリャ夫婦を呼び、
自分も初対面の挨拶を交わす。

建物に入る

明るい道に面した建物のドアから入ると、中は暗かった。
広い踊り場、
そこから上に延びる幅の広ーい階段、
階段の後ろに続く広い通路。
一緒に建物の1階奥へ進む。
奥は中庭への扉があった。

中庭には民宿小屋

中庭に小屋らしきものがいくつかが並んでいて
子供の声やら家族の楽しそうな声が聞こえる。
それは各地から行楽に来た人たちに貸す(民宿)小屋だった。
声の主たちは夏のバカンスを1週間なり一定期間過ごしに来ていた。


オーリャがオーナーらしき若い女性を呼び出した。
彼女は外国人とみるや「1泊10ドルです」と言い放った。
当時のウクライナの1ドルって
今の日本の5千円から1万円位かというほどの金額。
自分も絶句したが、それを横から見ていたオーリャは法外な
値段に驚き「じゃあいいです!」とぶっきらぼうに断った。


建物からいったん出て通りに戻ると、オーリャは宣言した。
「クリスチャンとしての心から、自分の部屋に受け入れる」と。
そんなわけで、オデッサの滞在は、サーシャとオーリャの部屋と決まり、
思いのほか素晴らしい時になった。


建物について、家族について

オーリャたちの住まいは、
建物自体はかなり古いが外壁の装飾など、古き良き時代の名残があった。
共用の階段、廊下、壁や戸別のドアの位置は、建立時のままのようだった。
建物入り口ドアから入って1階の右の扉だった。

戸別の玄関ドアを入ると、アパートとしてリフォームされていた。
つまり、台所、風呂場、トイレ、そして個室(ここは2つ)へ。

1つ目の小さい部屋にはお爺さん(サーシャの父)の部屋。
1つ目の部屋を通過して、奥の部屋は奥行きがあり広く、
夫婦と2歳の娘マーシャと猫シームカが住んでいた。

天井はとても高かった。
日本では庶民には高根の花のようなアパートだ。
各フラットは庶民用にリフォームされているとはいえ、うらやましい。


 ↓ 写真: この建物の、中央玄関の右手が滞在した部屋。
     1つ目の窓、キッチン、
     2つ目の窓、お爺さんの部屋
     右の3つの小さい窓が奥の大きい部屋の窓。

google mapよりスクショ

     ↑ 玄関ドアの上の付け足し出窓は当時はなかった。
     


作家パウストフスキー

翌朝、共通の玄関ドアから外へ出て
素敵な家だ!と外観を眺めた途端、
ドアの横にあるプレートに気づいた。

「え?ここパウストフスキーが住んでたの?」と
テンションが上がって一人で大騒ぎしている様子を見て、
サーシャが「昨日言ったじゃん。」
(前日は情報量が多くて、多分、頭が処理しきれてなかった。)
「オーリャは、うちの場所に彼が住んでたって信じてるよ」

google mapより

パウストフスキー

高校生の頃、「森林交響楽」という本を読んだ。
作曲家チャイコフスキーの晩年をフィクションを交えて描かれた小説。
田舎町クリンの生活や出来事、草木と自然への優しさが気に入っていた。

同じ本にもう一つの作品があった。
森で暮らす林業学者の話で、森の火事を迎え火を使って消火する話だった。
これも森への愛があふれていた。

その作家が、そのパウストフスキーだった。

後に、ロシア語を勉強するために通った学校の授業で、
彼の短編を一つ読んだが、それも気に入った。

そのため、オデッサで迎えた最初の朝、
ドアの横のプレートを見た時は衝撃だった。



現在は隣にパウストフスキー博物館があるらしい(ウクライナ語)




彼らとの、その後

その後10数年も、彼らとは手紙で文通を交わしていた。
家族も増えた。
成長する子供たちの写真も送られて来ていた。


オデッサで最初に会いサーシャとオーリャの家へ連れてきたVさんは、
キエフで働いていた奥さんと離婚したと聞いた。

音信不通

後に物価高騰や、再開発、お金がものをいう時代になった。
しばらくすると、彼らは、この家から出されたようだ。
通りの名前も変わった。

ずっと経ってからやっとメールも出始めたが、
スマホなどない時代で、まだお互い自分のパソコンもなく、
連絡が取れなくなってしまった。

隣人との係わりと、その後

彼らの家の建物には、アパートとして何家族も住んでいたが、
昭和の長屋のように、皆お互いを知り、仲良く助け合って暮らしていた。
滞在中、隣人達とも交流を持った。

同じ建物に住んでいた2人から、ずっと後になってメールを貰った。
当時男子高校生からメールが来た時は、自分のアドレスもなく返せず。

スマホが広がり始めた頃、別の部屋に住んでいた女性がメールをくれた。
家賃が上がって皆そこに住めなくなった、と書いていた。
彼女は夫のアドレスを使っていたが離婚して音信不通。


SNSが広まったのは、更にもっと後のこと。
みんな今どうしているか分からない。


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オデッサの滞在は最終的に約10日間になった。

本当はもう少し長くいたかったが、迷惑もかけるし、
ヴィザも心配だし、他に行く所もあったので…。

次回は、オデッサの町歩き、出来事を書いてみたい。

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