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社会から取り残された、あの頃のわたし

今、わたしの胸にちょこんと乗る、小さな羊。

3年前のわたしが、もがきながらも小さな居場所を見つけた証。

***

社会から孤立した、透明な存在。

そんな風に思っていた、会社を辞めてからの数年間。

フリーライターとして活動し始めていたものの、当時は名もなき仕事を、画面越しのもろい関係の中でしていたに過ぎなかった。

夫は仕事が激務で、深夜に帰り、すぐに眠りにつく日々。わたしが人間と会話をするのは、夫が帰ってから眠るまでの短い時間だけ。

そのほかの誰とも繋がることなく、引っ越してきたばかりの知らない土地で、粛々と画面上の仕事に向かう毎日。

「今わたしが死んだとしても、気づくのは夫ぐらいかもしれない」

そう思うほどには、社会から取り残され、自分が「いないもの」として存在している気分だった。

唯一わたしの息抜きになっていたのが、家の近所に新しくできたカフェでの時間だった。

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週に何回か、朝のオープンの時間を数分すぎた頃に入って、ホットロイヤルミルクティーを頼む。

朝の時間のお客さんは、わたしだけ。

お昼になると近所のママさん達がわいわいと入ってくるので、お店を切り盛りする2人の女性は、お昼の準備にパンを焼いたり、仕込みをしたり。彼女達はゆったりと集中していて、わたしの事を放っておいてくれるのが心地よかった。

全面ガラス張りで陽がさす店内も、ぬくもりのあるウッド調の雰囲気も、ていねいに淹れられたロイヤルミルクティーも、テーブルの上にちょこんと置いてある季節の草花も好きだった。

ノートを開き、好きなことを考える時間。自分の中から言葉が出てくる、自分との会話。わたしはちゃんと、この社会に存在している。

ここにいる時は「ちゃんと、わたしだ」と思えた。

このカフェで朝の時間を過ごすのが、わたしの楽しみになっていた。


この土地で暮らすようになって2年経ち、夫は会社を辞めた。

忙しすぎる毎日でギリギリを保って生きているように見えていたから、わたしも辞めることに賛成だった。

これまで押し殺してきた時間を取り戻すように、次の仕事が決まるまでの半年間、2人でいろんな場所へ行き、いろんな話をした。

一緒にあのカフェのモーニングを食べに行ったこともあった。

でも、夫がいるとなんとなく調子が狂ってしまい、のんびりできなかったのだけど。


その後、夫が横浜の会社に就職することが決まり、わたし達は鎌倉の方へと引っ越すことにした。

引越しの数日前、最後にひとりであのカフェへ。

いつものように温かいロイヤルミルクティーを飲む。ゆっくりと過ごして、お昼になる前にレジへ行く。

このお店に来るのも最後か、と心の中で少しの寂しさを感じながら、お会計を頼む。

特段店員さんと会話をしたことがあるというわけではなかったので、お別れの挨拶をするつもりはなかった。向こうも特に顔を覚えていたりはしないだろうと考えていた。

「あっ!」

お釣りを受け取るときに、店員さんがこちらを見ながらから声を発したことに驚く。

髪の毛をひとつに結んだ、爽やかで感じの良い女性は、続けて言った。

「来週から、オープンの時間が遅くなるんです。いつも朝に来てくれているから、申し訳ないのだけど…」

そうなんですね、と相槌を打ちながら、わたしのこと認識していたんだな、と驚いたし、来週はもう来られないな、とも思った。そして、もう来られないことを伝えるべきか迷って、数秒の沈黙の末に口を開く。

「実は、来週神奈川の方へ引越しをするんです、だから今日は最後にと思って…」

言いながら、目頭が熱くなるのを感じる。自分が思っていた以上に、このお店にもう来られないことが寂しかったのだと気づく。

店員さんは「そうなんだ!」と少し驚き、わたしの気持ちを代弁するように「寂しいなあ…」とつぶやく。

「あっ、ちょっと待ってね」

思いついたような顔をして、ガサゴソと棚の引き出しをあさる店員さん。

「じゃあコレを、餞別に」と言いながら、わたしの前にずいっと小さな何かが差し伸べられる。

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「コレ、うちの店のブローチなんです。ほら、こうやってエプロンにつけていて」

良かったらもらってください、と笑顔で差し出す女性。ありがとうございます、と受け取るわたし。

引っ越してもお元気で、と送り出されるわたし。

遠くなるけど、また絶対に来ますと言いながら店を出るわたし。

この日はカラッと晴れた冬の日で、時刻は昼前、まだ日が高い。

そんな冬晴れの真昼間に似合わない顔で、うつむいて、目を閉じるわたし。

右手に握ったままの羊のブローチは、この街とわたしに関わりがあった証。

透明ではない自分、また帰ってこられる場所、誰かに仲間だと認めてもらえた証。

***

3年前にもらった羊のブローチは今、自分のお店をもったわたしのエプロンに。

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新しい土地での暮らしが始まっても、その後また引っ越して別の土地へ行っても、いまだにずーっと、あのカフェを思い出す。

あの時にもがいていた自分の記憶と、当時のわたしを癒してくれたあのカフェの思い出とともに。

そんな温かい場所を、わたしも作れたらいいなと思いながら。

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追記:ここで書いたのは、こちらのカフェです。

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じぶんジカンのノート、おうち時間のおともにどうぞ。




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