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揺らぎながら生きる

いつも満ち満ちた状態でいることは、理想ではあるけれど、たぶん難しいのだろうと薄々気づいている。

ヒトは自然の一部だから、海が満ち引きするように、月が満ち欠けするように、わたしも満ちて、溢れて、引いて、足りなくなってを繰り返して、ゆらゆら漂って生きるものなのだろう。

自分に何かが足りていないとき、「自分がうまくいっていないこと」はわかるのだけど、その足りない「何か」は自分では意外に気づけなかったりする。それで、日常の中でふと、その「何か」に触れて初めて気づく。

「ああ、これが足りなかったんだ」

その「何か」はたいてい、取るに足らないもの。掻き鳴らすギターが響く音楽とか、人と世間話することとか、くだらない番組を観て笑うこととか。

何でもないものの組み合わせで、バランスを取って、自分が生きているのだと実感する。

自分のために文章を書くことも、とても大切なわたしの構成要素のひとつ。誰のためでもなく、わたしのために書くこと。今書いているこの文章のように。

「自分のために文章を書くこと」が不足すると、わたしの人生の大切な部品が欠けているような気さえする。それなのに、「書くこと」を後回しにしがちだったりもするのだから、困ったものだ。

どうして後回しにしてしまうのかというと、それはやはり「自分のため」だからなのだと思う。誰かが待ってくれているものや、生きるために必要なことを先にやっているうちに、「自分のため」の時間はどんどん押し出されていく。

そんなこんなで2月は、自分のための文章がぜんっぜん書けず、自分の中にモヤモヤがぐるぐると渦巻いて息苦しかった。

文章を書く。自分のために。それは自分が感じたことの輪郭をなぞって、感情に気づいたり、認めたりする作業。

そして、感情を、心の動きを、自分の一部として大切に残していくような。

ただ「文章を書くこと」ならば、毎日やっているのだけれど、やっぱり「自分のために書く」は特別。何を伝えたいとか、そういう目的を伴わずに書くこと時間はマスト。

そういえば先日、「誰にも見せないような日記に書くこと」と「人の目に触れるnoteに書くこと」の違いを聞かれたのだけれど、わたしはどちらも書いていて、無意識ではあるけれど明確に使い分けをしているのだと気づいた。

誰にも見せない文章は、自分から切り離すようなイメージ。自分が悩みなどのネガティブな感情でいっぱいいっぱいになったとき、その容量を軽くするために、ノートに言葉を出していく。表現としてではなくて、ただ感情をそのまま並べていく感じ。

対してこの文章のように、人の目に触れる場所で「自分のために書くこと」は、自分の心の動きを「一番近い言葉で表現したい」という衝動。だからその感情をひとつひとつ手にとって、指でなぞって、形や温度を描写していく。わざわざ人に読んでもらう必要があるかといえば無いのだけれど、わたしの場合は読んでもらえる方が書きたくなるという。

揺らぎながら生きる。

足りなくなっては、満ちてゆく。それでいい。

「いつも満ちていることは理想だけど難しい」と冒頭で書いたけれど、だからといって、あきらめる気はない。わたしは自分を満たしながら生きることを、あきらめない。

たとえ自分を満たすことが絵空事だったとしても、それはそれでいい。理想を達成することは目的じゃない。わたしはただ、「自分を満たそうとすること」が心地よいから、そうしているだけなのだから。

そう、いつだって達成は目的じゃない。
日々をより心地よくすること、それだけ。

おわり
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