「無理しない生き方」で進んでいくために
無理をしないで、生きていきたい。
自分に負荷をかけてガシガシ成長したり、押し殺してでも何かを得たり守ったり作ったりしたい…なんて気持ちは、わたしの脳内にはまったく見当たらない。
思い返せば、そもそも「無理をすること」に向いてないのだと思う。
顧問やコーチから怒られながらも、自分の限界に迫るようなゴリゴリの部活もしてきてない。お腹をすかせたお客様相手にスピードを要求されるモスバーガーのバイトは、始めてすぐに「無理だ」と思って辞めてしまった。
そして、ちょっと無理をしてでも人間関係を築いて頑張ろうと思った会社員生活は、1年半で身体を壊した。
次第に「自分は、まわりの人達と同じレベルのエンジンは搭載していないようだ」と気づく。
いや、エンジンの性能は厳密に言えばそれぞれ異なるのだけど、でも、あきらかに「みんなが普通にできること」がわたしにはできない。
集団の中で上手く立ち振る舞うことができない。毎日通勤することができない。元気に週5日仕事をすることができない。1時間も集中していられない。
「できないこと」にばかり目を向けると、おそらく心身ともにあっという間に参ってしまうので、わたしは決めた。
自分が参ってしまわないような、無理のない生き方をしよう、と。
今回は「無理しない生き方」について考えてきたこと、実践してきたことを。誰かにとって、何かのきっかけになったら嬉しいな。
どうして無理をしてしまうんだろう
「どうして無理しちゃうんだろう」
そう考えてみたときにパッと思いついたのは、「それが当たり前だと思っているから」ということだった。
わたしは「無理をすること」に向いてないくせに、これまで無理をしがちだったなあと思う。
いつだって自分のなかの「みんなと同じようにできるようにならねば」「これが普通なのだからやるべき」といった思いに縛られて、勝手につくり上げた「正解」に近づけるよう、劣っている自分を補うために無理をすることが多々あった。
それらはすべて「無理をするのが当たり前」だと思っていたから、なのかも。
「だってそういうものでしょう?無理をしてでも『正解』に近づかないと、生きていけないでしょう?」って。
でも、本当にそうなのかな。本当に無理をしないと生きていけないのかな。
そんなことを、ふと思った。
それで「無理しない生き方って可能なんだろうか」と考えるようになり、「できるものなのかどうか自分の人生で実験してみたいな」と思うようになった。
無理しない生き方を阻止するもの
そうして「無理しない生き方」へと舵を切ろうとしたとき、そちらへ進むことを阻止してくるものがあった。
「それって、わがままじゃない?」
「甘いよ、そんなの」
「誰かに迷惑がかかるよね?」
立ちはだかったこれらの言葉を発したのは、主に「自分」だった。
もちろん周囲の人から、これらの言葉を手渡されたり投げつけられたりすることもあったのだけど、一番大きな声で阻止してきたのは、紛れもなく自分の声だった。
ちなみに、誰かからそう言われたときは、やはり面食らう。自分のなかの自分も声高にそう言っているので、「やっぱりそうだよなあ」と弱気になる。
でも、すこしだけ踏ん張って、体勢を整えて。いつも通りそこで思考停止するのを避け、一歩踏み込んで考えてみる。
そのときにわたしが思ったのは「大切な人以外の助言だったら、あまり気にしなくても良いかもしれない」ということだった。
それらの言葉の発信源は、わたしにとって大切な人だろうか。これからも大切にしたい人達だろうか。
他人に関しては多くの場合そうじゃなかったし、また、自分について考えてみても、そんな後ろ向きな「自分」は、これから大切にしていきたい人じゃないかも、と思ったのだった。
【無理しない生き方への1歩目】どんな無理をしているのか考える
そして一歩ずつ「無理しない生き方」へと向かって、歩みを進めていく。
じゃあ、どうすれば「無理しない生き方」を実現できるんだろう?
まず考えたのは「そもそもどんな無理をしているんだろう?」ということだった。
大きく分けると、ふたつの分類ができそうだ。
【無理の種類】
・精神的なもの
・身体的なもの
身体的な無理は、重なると身体を壊したり調子が悪くなったりするので、目に見えやすい。でも、本当は「目に見えるようになる頃」には無理し過ぎで、そこまで重ねるのは良くないのだとも思う。
また、精神的な無理は、目に見えない分だいぶ重ねてしまいやすい気がする。リセットできるものでもないので、だいぶ前の「小さな無理」ですら蓄積していたりするし。
また、「精神的なもの」と「身体的なもの」のなかでも、様々な切り口がある。
【無理が生じる切り口】
時間/場所/人付き合い/仕事/環境/食事…etc
自分はいま、どんな無理をしているんだろう。
精神的?身体的?また、どんなところで無理をしやすい?
そんなことを考えながら、自分を知っていくこと。これが一歩目。
【無理しない生き方への2歩目】自分のキャパシティを把握する
自分がしている「無理」に目を向けるだけじゃなくて、「じゃあどれぐらいを超えると "無理" になるのか」も重要な視点。
具体的に言うと、例えば「睡眠がどれくらい短くなると?」「話すときのグループの人数が何人以上だと?」といった具合に。
無理をしている部分と、本来の自分のキャパシティについて、仮説を立ててみる。
「この切り口においては、この点を超えると無理になるんじゃないか?」
そうやって仮説を立てた部分は、自分のキャパシティ内にどうにか納められないか、考えてみる。
【無理しない生き方への3歩目】無理してない人を観察してみる
とはいえ、自分のなかだけで考えていくと、どこかで超えられなさそうな壁にぶち当たる。
「どうしても無理しないといけない気がする」「無理が避けられない道な気がする」そんな風に思う場面もある。
そんなときは、自分以外の人に目を向けてみる。
自分と似たエンジンを搭載していながら「無理しない生き方」を実践できている人は、周りにいるだろうか。身近な人でなくても良い。観察できる対象として、「この人は無理をしてないなあ」「良い感じに力が抜けているなあ」「自分もこういう方向に進みたいなあ」と思える人を、見つけてみる。
そして、その人をたっぷり観察する。
どういう考え方をしているんだろう。何を大切にして、どういう道を選び、何を選ばずにいるのだろう。
どうしたらそうやって肩の力を抜けるのか、何がその人を「無理しない」姿にしているのか。
そうやって「実際に無理しない生き方をしている人」から、学んでみる。マネできそうなことは、マネしてみる。または、その人の思考をインストールして、行動してみる。
それは自分を拡張するような、自分の思考だけではたどり着けない考えや場所に行くような、そんな作業。
自分にとっての「無理しない生き方」を考える
いま書いた3つのことを一歩、二歩、三歩とずーっと繰り返して進みながら、「無理しない生き方」を模索してる。
ちなみにわたしは今、数年前の自分と比べたらだいぶ無理は減ったし、去年の自分よりも無理を減らせたとは思うけれど、まだまだ「ここは無理しているな」と思う場面もある。
きっと、ずっと仮説と検証の繰り返しなんだろう。
「あの人みたいに無理なく生きたい」と思う "あの人" ですら、きっと「100%無理がない」なんてことは、ないのだろう。
それでも。減らしていけるのなら、あきらめたくない。わたしはそう思っていて。
一歩ずつでも、もっと自分らしく生きられるように。
明日のわたし、来月のわたし、来年のわたしが、より笑顔でいられるように、「無理しない生き方」の道を進んでいきたいと思う。
おわり
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