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「居場所がほしい」という悲鳴にも似た、あの文章。

「この物語は、自分の居場所を探す冒険だ」

19歳の夏、大学の授業のレポートに書いた一節が、今もわたしの心にたびたび浮かんでくる。

あれは『現代小説の楽しみ(村上春樹を読む)』という授業だった。

わたしが所属する学部の名物授業で、毎年その授業をとること自体が抽選になるほどの人気があった。

当時のわたしは、村上春樹作品を読んだことがなかった。

それにも関わらず、「せっかくなら!」と思ってその授業をとり、高倍率の抽選に見事当たって、その半年間に10冊ほど読むことになる。

正直なところ、小説の内容はわたしにはよくわからなかった。読解力のなさか、単に好みじゃなかったのか。これが授業じゃなかったら、読むのをやめていたかもしれない。

ただ、授業自体は前評判に違わず、ものすごくおもしろかった。

満席になった大教室全体が作品にのめり込み、先生の解釈を聴きながら自分の解釈を広げていくのが感じられるほど熱気に満ちていた。その授業の時間は、わたしのつまらない大学生活における数少ない楽しみとなっていた。

そして、冒頭の一節。

「この物語は、自分の居場所を探す冒険だ」

これは、この授業の単位がとれるかどうかが決まる、期末試験のレポートで書いた文章。

課題は『羊をめぐる冒険』の自分なりの解釈を書くこと。つまりそれは、わたしなりのその物語についての解釈だった。

かなりの文量を書いたので、おそらく2000字以上はあるレポートになっていたと思う。

「この物語は、自分の居場所を探す冒険だ」から始まる超大作の文章は、純粋な小説の解釈というよりも、自分自身の「社会から浮いている感覚」を小説の解釈というカタチで発散した、つまりは私情入りまくりの「自分を強く投影したレポート」だった。

当時、わたしには「居場所」がなかった。

実家もあったし、バイトも複数かけもちしていたから、物理的な“自分が居る場所“はあったけれど、精神的に「ここが居場所だ」と思える場所は、ひとつもなかった。

そんな日々のなかで、自分の生きる意味、存在価値、そんなことばかり考えていたと思う。

苦しかった。誰かに聞いてほしかった。「ここにいていいんだよ」と言われたかった。そんなことばかりが、自分の中にぐるぐると渦巻いていた。

そんな私情たっぷりの思考と、小説の解釈(っぽいもの)が入り乱れた、熱のこもったレポートだったと自分でも思う。書き終えた後には「自分の気持ちを文章にできた」という達成感があり、自分をすこし褒めたくなったのを覚えてる。

ちなみに、単位はしっかり獲得した。

評価が厳しい先生と聞いていたので、ドキドキしながら通知表を見て、単位がとれている(しかも割と良い評価で!)とわかったときは、身体の奥から熱い血が込み上げるような感覚があった。

「わたしの中でドロドロと渦巻いていた感情を、熱量込めて書いた文章が、ちゃんと受け取ってもらえた」

それはわたしにとって初めての経験で(そもそも熱量を込めて文章を書いたのが初めてだった、と思う)、思えばこれが原体験のひとつになり、わたしは今「書くこと」を仕事にしているのかもしれない。

***

今のわたしはもう、『羊をめぐる冒険』がどういう物語だったか、なぜ「居場所を探す冒険だ」と解釈したのか、くわしいことは覚えていない。

だけど、「居場所を探す冒険」という言葉だけが、今もたびたびわたしの胸をよぎる。

それにつられて当時を思い出すたび、あのときの苦しさがよみがえる。

切実だった自分の居場所のなさ。存在価値を求める渇いた心。

今はあのときほど飢えていないし、ある程度自分で居場所を築いてこれたとも思ってる。

でも。

あのレポートの書き出しが浮かぶときいつも、わたしの心は不安と期待でいっぱいになる。

あのころも、今も、きっとこれからも、自分の人生が「居場所を探す冒険」になるのだろうという予感とともに。

おわり
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