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出雲の神に祈る神


出雲いづも大神おおかみにおいのりあそばす

大正天皇たいしょうてんのう 御物語おんものがたり

大正天皇たいしょうてんのうさまは御母君おんははぎみ二位局にいのつぼね柳原やなぎはら愛子なるこかたもうされて、天皇てんのうさまがおうまれあそばれたとき御典侍ごんてんじらせられました。

水谷次郎 著『大正天皇御物語』,日本書院出版部,昭和2年

引用いんようしたもと児童書じどうしょ文章ぶんしょうでは柳原やなぎはら愛子なるこのフリガナが「やなぎはら あいこ」となっていますが、正しい「なるこ」になおしています。

大正天皇たいしょうてんのう権典侍ごんてんじ明治天皇めいじてんのう側室そくしつ柳原やなぎはら愛子なるこの子どもとして明治めいじ12年《1879年》8月30日に生れました。
先に生れた二人の皇子おうじ早逝そうせいする中での待望たいぼうのお世継よつぎ誕生でありました。

大正天皇たいしょうてんのう御称号ごしょうごう皇族こうぞく本人を尊称そんしょう)は明宮はるのみや。名は嘉仁よしひと親王しんのう

御父おんちち明治天皇めいじてんのうさまがおちいさい時分じぶんに、御生母おせいぼ中山なかやま一位いちいのつぼね父君ちちぎみなる中山なかやま忠能ただよしきょうのおやしき御成長ごせいちょうにあらせられたおめでたい前例ぜんれいにならって、明宮はるのみやさまも御宮おみや参ゐまいりのぎた時分じぶんから、青山あおやま御所ごしょから麹町こうじまち有楽町ゆうらくちょう中山なかやま侯爵邸こうしゃくていにおうつりあそばされ、明治めいじ十八年の二月までは、そこの明宮はるのみや御殿ごてんにおあそばされたのでありました。
そして中山候なかやまこうはじめとしておきの人々ひとびとが、朝夕あさゆうこころをこめておつかもうしあげたのでありますが、そのころ天皇てんのうさまは玉體ぎょくたい御丈夫おじょうぶでありませんでしたから、おも御病氣ごびょうきになやませられたことも一度二度いちどにどではなかったとうけたまわります。

水谷次郎 著『大正天皇御物語』,日本書院出版部,昭和2年

大正天皇たいしょうてんのう生涯しょうがい体調たいちょう不良ふりょうとの戦いを続けた天皇でしたが、幼少期ようしょうきは特に重いやまいにかかることが多く、周囲しゅういの人々を心配させたということです。

また、玉体ぎょくたい御丈夫ごじょうぶでない(体が弱い)ことは、天皇を現人神あらひとがみとしていた大日本帝国としては、国の根本こんぽんにかかわる問題でした。

宮中きゅうちゅういのられていた出雲いづも大神おおかみ

そのころ明治天皇めいじてんのうさまの皇后こうごうさま(のち照憲しょうけん皇太后こうたいごうさまともうしあげた)は明宮はるのみやさまのおよわいのを御心配ごしんぱいあそばすあまりに、出雲いづも大神おおかみにおいのりをこめられたとうけたまわりました。
しかし、うして皇后こうごうさまや中山なかやま一位いちいのつぼねなどがかみにおいのりあそばされ、御乳人おちのひとたちをはげまされて、となくよるとなく御仕おつかもうしあげた甲斐かいがあり、御成長ごせいちょうともにだんだん玉體ぎょくたいはお丈夫じょうぶにならせられて、明治めいじ二十年に御年おんとしさいにならせられたときには、まった御健康ごけんこうとなりたま氣色きしょくすぐれてうるしくならせられ、同年どうねんの八がつ三十一にち東宮とうぐう宣下せんげがあり、そのとしがつ十九にちにはじめて學習院がくしゅういんにお入學にゅうがくあそばれました。

水谷次郎 著『大正天皇御物語』,日本書院出版部,昭和2年

私が京城けいじょう(ソウル)で国の重要任務じゅうようにんむに当たっていた引揚ひきあしゃの集まりで聞いていたのは、「大正天皇たいしょうてんのう周囲しゅういの人たちが、出雲いづも大神おおかみいのられていた。そのため朝鮮半島の計画にふか影響えいきょうあたえていた。」という話でした。

確認かくにんを取るため史料しりょうさがしていたのですが、児童文学レベルに掲載けいさいされている話とは思ってもみませんでした。

出雲いづも大神おおかみたた

出雲いづも大神おおかみ」は大国主神おおくにぬしのかみとされていますが、この出雲いづも大神おおかみいのってやまいえた話が別にあります。
古事記こじき」の「垂仁記すいにんき」に登場する出雲いづも大神おおかみたたり」という説話せつわです。

ダイジェストで説明します。

垂仁天皇すいにんてんのう皇子おうじ本牟智和気命ほむちのみことちょうじてからも言葉を話すことがなかった。落ち込んでいた父である垂仁天皇すいにんてんのうは夢の中で「みやを天皇の御舎みあらかのようにつくれば、御子みこは必ず物を言うであろう」と教えられ、皇子おうじの物言わぬことが出雲いづも大神おおかみたたとわかった。

そこで皇子おうじ曙立王あけたつのみことその弟の菟上王うなかみのみこの二人をともなわせて出雲いづももうでさせた。
出雲いづもから帰るさい肥川ひのかわに橋を渡しかり宮殿きゅうでんを建てて休んだ。そこに出雲いづもの国造くにのみやつこ青葉あおばかざった仮山かざん築山つきやま)を作り、肥川ひのかわ川下かわしもで食事を献上けんじょうしようとした。この時、初めて皇子おうじは口を開いた。

「この川下かわしも青葉あおばの山のようなものは、山に見えるが山ではない。もしかすると、出雲いづものいわくまの曽宮そのみや葦原色許男大神あしはらしこおのおおかみ大国主おおくにぬしのかみまつっている祭場さいじょうだろうか」と話した。

そこでおともをしていた曙立王あけたつのみこと弟の菟上王うなかみのみこよろこんだ。皇子おうじ檳榔あじまさ長穂宮ながほのみやに移すと、早馬はやうまを走らせ天皇に報告ほうこくした。

天皇はこれをよろこび、菟上王うなかみのみこ出雲いづももどして出雲いづも大神おおかみみやつくらせた。
また鳥取部ととりべ鳥甘部とりかいべ品遅部ほむちべおお湯坐ゆえわか湯坐ゆえもうけた。

というものです。
この説話せつわから町名ちょうめいけた場所がありました。

京城けいじょう(ソウル)青葉町あおばちょう

京城府全図けいじょうふぜんず青葉町あおばちょう

こちらはオリジナルの国立国会図書館所蔵しょぞう京城府全図けいじょうふぜんず昭和しょうわ9年(1934年)京城府けいじょうふ土木課製どぼくかせい昭和しょうわ61年(1986年)謙光社けんこうしゃ復刻ふっこく発行はっこうばんになります。私が地図を探しに国立国会図書館をおとずれたころは、館内閲覧かんないえつらんのみでした。それをコピーサービスで複写ふっくしゃしてもらい持ち帰りました。

引揚ひきあしゃの集まりで使われていた地図は、こちらではありませんでした。当時京城けいじょう(ソウル)から引揚ひきあげた日本人のうち、連絡れんらくの付いた人たちが自分たちの記憶きおく鮮明せんめいなうちにと力を合わせて作った地図だったと記憶きおくしています。
さらに、それをコピーしていただいたことをハッキリとおぼえているのですが、残念ざんねんながら父の介護かいごのために住みえたさい紛失ふんしつしたと思われます。

京城府全図けいじょうふぜんず」は白黒で不鮮明ふせんめいなうえ、一部記載きさい間違まちがいがあったため修正しゅうせい、自分で着色ちゃくしょくしました。
そちらを使って説明していきます。

カラー化、一部記載きさい間違いを修正

こちらが京城けいじょう(ソウル)に付けられた出雲いづもえんのある町名ちょうめいひとつで、垂仁天皇すいにんてんのう皇子おうじ本牟智和気命ほむちのみこと」の説話せつわちなんだ、京城府けいじょうふ青葉町あおばちょうになります。

そのすぐ近くの線路が多数えがかれている施設しせつが「京城駅けいじょうえき」です。大東亜戦争だいとうあせんそう敗北後に建国けんこくされた現在の韓国の首都しゅとの駅、初代ソウル駅としても使われ、現存げんぞんしています。

南大門なんだいもん停車場ていしゃじょう京城けいじょう停車場ていしゃじょう

京城駅けいじょうえき(文化駅ソウル284・운화역서울284)
南大門なんだいもん停車場ていしゃじょう

現存げんぞんする京城けいじょうえきに建てえ前の「南大門なんだいもん停車場ていしゃじょう別称べっしょう南大門なんだいもんえき京城けいじょう停車場ていしゃじょう京城けいじょうえき)になります。
写真 朝日新聞写真班 撮影『ろせった丸満韓まんかん巡遊じゅんゆう紀念きねん写真帖しゃしんちょう』東京朝日新聞会社 明39.10. 国立国会図書館デジタルコレクション。

京城府けいじょうふ市街しがい疆界圖きょうかいず境界図きょうかいず

こちらは、大正たいしょう3年(1914年)の京城府けいじょうふ市街しがい疆界圖きょうかいず境界図きょうかいず)、南大門なんだいもん停車場ていしゃじょう周辺しゅうへんになります。元の地図が不鮮明ふせんめいのため見えにくいですが、地図の右側には、まだ朝鮮ちょうせん神宮じんぐうがありません。

次が京城府けいじょうふ全図ぜんず昭和しょうわ9年(1934年)京城けいじょう土木課製どぼくかせいになります。

地図右側に創建そうけんされた朝鮮ちょうせん神宮じんぐう

昭和しょうわ9年(1934年)ともなると駅名も京城けいじょうえき表記ひょうきかたまり、駅と同じ年の大正たいしょう14年(1925年)に工事が完了かんりょうした朝鮮ちょうせん神宮じんぐうが、地図右側にえがかれています。

そして朝鮮ちょうせん神宮じんぐうの階段(こまかく線が入っている部分)の先に、新しい地名ちめいが付けられていました。

京城けいじょう(ソウル)御成町おなりちょう由来ゆらい「1」

貴人きじん御成おなりになられた神聖しんせいな場所をしめ町名ちょうめい御成おなりちょう
この町名ちょうめい由来ゆらいとなった南大門なんだいもん停車場ていしゃじょう使ようした「くもうえかた」が、大正天皇たいしょうてんのう訪韓ほうかん当時とうじ嘉仁よしひと親王しんのうでした。

南大門なんだいもんえき南大門なんだいもん停車場ていいしゃじょう)の奉迎ほうげい装飾そうしょく

嘉仁よしひと親王しんのう大正たいしょう天皇てんのうむかえるさい装飾そうしょくほどこされた南大門なんだいもんえき南大門なんだいもん停車場ていしゃじょう)です。

前列左から3番目  嘉仁よしひと親王しんのう

明治めいじ40年(1907年)10月16日、海軍大将かいぐんたいしょう有栖川宮ありすがわのみや威仁たけひと親王しんのう随伴ずいはんし、仁川港じんせんこう上陸じょうりく。そこから特別列車とくべつれっしゃでの京城けいじょうりでした。

明治維新めいじいしん近代皇室きんだいこうしつはつ外国がいこく訪問ほうもんは、この嘉仁よしひと親王しんのう大正たいしょう天皇てんのう)の訪韓ほうかんとなります。

そして、生涯しょうがい健康問題けんこうもんだいかかえていた嘉仁よしひと親王しんのう大正たいしょう天皇てんのう)にもかかわらず、これより5ヵ月前の5月10日には山陰さんいん行啓ぎょうけいおこなっていたのです。

そのため、およそ1ヶ月間をようした鳥取・島根への長旅ながたびを終えた同じ年の外遊がいゆうという、体への負担ふたんが大きい強行きょうこうスケジュールとなっていました。また、この「山陰さんいん行啓ぎょうけい」のさいには、島根県にて出雲大社いづもおおやしろ参拝さんぱいされていました。

京城けいじょう(ソウル)御成町おなりちょう由来ゆらい「2」

そして御成おなりちょうという町名ちょうめいには、もうひと重要じゅうような意味がけてありました。それは、神代かみよむかしてんよりこのたれたとつたわる神の存在でした。

そのことをしるした日本書紀にほんしょきによれば、

素戔嗚命すさのおのみことあねである天照大神あまてらすおおかみとの誓約うけいのち慢心まんしんし、高天原たかまがはら追放ついほうされた。そして、息子むすこ五十猛いそたけるのみこととも朝鮮半島の新羅しらぎのくにった。

しかし、素戔嗚命すさのおのみことはこの地にたくはないと言い、つちで船を作りひがしに渡り、出雲国いづものくに斐伊川ひいかわ古事記こじきでは肥川ひのかわ)の鳥上山とりかみやま船通せんつうざん、鳥取島根の県境けんきょうにまたがる山)に辿たどいた。その後、素戔嗚命すさのおのみこと八岐大蛇やまたのおろち退治たいじした。

という、出雲いづも神話しんわになっていました。

.古代こだい出雲大社いづもおおやしろ 右.朝鮮ちょうせん神宮じんぐう

天照大神あまてらすおおかみまつった朝鮮ちょうせん神宮じんぐうてん高天原たかまがはら)へと向かう階段。これをくだった先に付けられた町名ちょうめい御成おなりちょう

このように、素戔嗚命すさのおのみこと御成おなりになられた朝鮮半島の新羅しらぎのくに京城けいじょう(ソウル)であることをしめしていたかのようでもあったのです。

さらに以前いぜん紹介しょうかいした新羅しらぎの建国は出雲族いづもぞくおこなった」という大東亜戦争だいとうあせんそう敗北はいぼくまでの日本の歴史認識れきしにんしきと合わせる時、嘉仁《よしひと》親王しんのう大正たいしょう天皇てんのう)の訪韓ほうかんはまるで、古事記こじき出雲いづも大神おおかみのもとをたずねた垂仁すいにん天皇てんのう皇子おうじ本牟智和気命ほむちのみこと説話せつわならったかのような行事ぎょうじとなっていたのでした。

出雲いづも何処いずこにあったというのでしょうか?
まだまだ日本と朝鮮半島をつなぐ出雲いづもの話は続きます。

今回はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。







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