『ビデオゲームの美学』の要約と感想
『ビデオゲームの美学』(松永伸司. 2018. 慶應義塾大学出版)という本を読みました。
数年前にさらっと読んだことはあったのですが、今回、羊谷知嘉さんという人が運営するDiscordサーバーの読書会に参加し、隔週で半年間かけて輪読しました。
(読書会はカジュアルな雰囲気で、聞き専を含めると10名以上参加している回がほとんどでした。8月4日から新シーズン『プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近』に入るので、興味のある方はサーバーにお越しください。)
この本は、ビデオゲーム(デジタルゲーム)とは何か、どのような要素や特徴があるのか、などについての本です。一見難しそうですが、ほぼすべての箇所は詳細かつ明晰に書かれており、理解しようと努力して読むならば分かりやすいと思います。
また、ビデオゲームに関する議論や、ゲームデザインに役立つ箇所も多く、有用性の高い本でもあります。
せっかく半年間かけて読んできたので、各章の重要な部分をこの記事にまとめます。面白そうだと感じた人は、ぜひ購入して読んでみましょう。また、この記事に書かれている意味が分かりにくかった人も、本には多くの具体例が登場するため、読んでみることをおすすめします。
各章に書かれていること
序章:ビデオゲームは芸術形式の一つだと述べた上で、本全体の問いと、その意義を説明している
第I部:芸術としてのビデオゲーム(第1章~第3章)
第I部は、概念や用語の明確化を中心に行っている。本書の議論の中心は第II部以降なので、関心がなければ第4章まで飛ばしても構わない。
・第1章:「ビデオゲーム」の定義、つまり本書の議論の対象範囲について論じられている
・第2章:ビデオゲームの受容過程を「意味作用」と「行為」の二つの側面に分けている。また、「受容」などの概念の特徴づけを行っている
・第3章:芸術という概念について説明したあと、ビデオゲームを芸術として扱う理由を述べている
第II部:一つの画面と二つの意味(第4章~第7章)
第II部は、「ゲームメカニクス」「虚構世界」の区別と、それらの解説が中心になっている。
・第4章:前半では、記号システムの説明がされている。後半には「インタラクティブ性」に関する議論がある
・第5章:「ゲームメカニクス」と「虚構世界」の区別を行っている
・第6章:前半では「フィクション」について、後半ではゲームの虚構的内容・ゲーム的内容のうち虚構的内容について論じられている
・第7章:ゲームメカニクスやゲーム行為の定義を論じた後、ゲームメカニクス上の各要素を説明している。また、後半では美的行為という概念が提唱されている
第III部:二つの意味のあいだで遊ぶ(第8章~終章)
第III部では、これまでの議論を応用し、「虚構世界」「ゲームメカニクス」の相互作用について論じたり、様々な概念を先行研究よりも明確に記述している
・第8章:これまでに示された「虚構世界」「ゲームメカニクス」の二つの相互作用が論じられている(この章が一番好き)
・第9章:これまでの議論を応用し、ビデオゲームの空間表象について明確な記述を行っている
・第10章:同様に、ビデオゲームの時間や時間にまつわる諸概念について、明確な記述を行っている
・第11章:虚構世界内の行為をフィクションの受容者に帰属させる文(FA文)が、一体何か論じられている
・第12章:第8章に登場した相互作用の一つである「シミュレーション」が掘り下げられている
・終章:美的行為という概念を導入した意図、今後の課題や展望が述べられている
序章
本書の目的・ナラデハ特徴
・芸術形式には得手不得手があり、ならではの特徴がある。ビデオゲームという芸術形式の「ナラデハ特徴」を明らかにするのが本書の目的
・絵画の可燃性など、すべての特徴がナラデハ特徴になるわけではない
・ナラデハ特徴になるのは、重要な特徴、つまり、当の芸術形式の作品として評価される際にふつう評価項目になる特徴である
・「芸術形式の作品として評価とはどういうことか?」「ビデオゲームは本当に芸術なのか?」などの疑問は、第2章、第3章で取り扱う
・「明らかにする」とはどういう意味か?理論的枠組みを作り上げ、それを使って一般性を持ったかたちで記述することである
・本書の理論は、説明力(われわれの直感を十分かつ整合的に説明できる)と体系性(既存の理論と接続できている)の基準を満たすべく作られている
本書の意義
・ビデオゲームの研究は、コンピュータテクノロジーの人間の認知的活動への影響を明らかにすることに寄与する
・本書は、ビデオゲームの特徴を一般的に記述するための道具立てを提供する理論研究である
・この道具立ては、作品構造の分析や作品の評価にも役に立つ。また制作にも役立ちうる。これらには、考えの整理や表現の正確さが重要だからだ
第1章:ビデオゲームとは何か
定義とは何か
・「ビデオゲームとは何か」は、ビデオゲームの本質を求める問いである
・しかし、いまはビデオゲームの本質を求める探求の出発点としてのビデオゲームの定義(「ビデオゲーム」という語の指示対象・本書の取り扱い範囲)が必要である
・本書が採用するビデオゲームの定義(指示対象)は、既存の言葉づかいに即していなければならない
・また、種類と個体は別である。以下「ビデオゲーム」を種類・提示形式を指すときに用い、「ビデオゲーム作品」を個体・作品を指すときに用いる
・本書の主題は「ビデオゲーム」だが、提示形式の特徴は、それに属する作品が一般に持つ特徴として抽出するしかない。そのため、この章では「ビデオゲーム作品」の外延を確定させる
先行研究
・サレンとジマーマンは、ビデオゲームをゲームの下位概念として定義している
・この定義は、ゲームの要素のうち<争い(コンフリクト)>を含まないビデオゲーム作品(ビデオゲームと見なされている作品。例『Mountain』)を拾えていないため、外延的に十全ではない(不適切である)
・タヴィナーは、
Xは、以下のときにビデオゲーム作品である。それが視覚的なデジタル媒体を持った人工物であり、かつ、娯楽の対象として意図されており、かつ、そのような娯楽が、以下のいずれかまたは両方の参加方式を使って提供されるよう意図されているとき。ルールと目的を持ったゲームプレイ、インタラクティブなフィクション。
という「選言的な定義」を採用している
・この定義は、サレンとジマーマンの定義の問題を乗り越えているが、「娯楽の対象として意図されており」という条件が、外延を不当に狭めているという問題がある
本書の対象と用語の整理
・本書では、タヴィナーの定義に「芸術的な受容」と「シミュレーションの受容」を選言肢として追加したものを提案する(前掲)
・「娯楽」「芸術」「ゲームのプレイ」「インタラクティブなフィクション」「シミュレーション」は、不明確な概念かもしれないが、これらを理論的に意義あるかたちで定義することは、本書全体を通してなされる仕事である
・ビデオゲーム作品の媒体は、出力媒体、入力媒体、演算処理媒体の三つの要素で構成されている
・以下、出力媒体を「ディスプレイ」(音声出力も含む)、入力媒体を「コントローラ」、演算処理媒体を「コンピュータ」と呼ぶ
・「ビデオゲーム」の類義語には「デジタルゲーム」など様々なものがあるが、それぞれに難点がある
・「ビデオゲーム」という語を採用することには利点があるため、「ビデオゲーム」を採用する
・ビデオゲームではないゲーム(例えば将棋)を、本書では「非ビデオゲーム」と呼ぶ
第2章:ビデオゲームの意味作用
受容・芸術的評価・カテゴリー
・受容とは、芸術評価的なモードで作品を経験することである。芸術的評価を正当化できるような経験が受容である
・芸術的評価とは何かは、それぞれの芸術形式の受容実践の観察によって明らかになる問題であるので、本書では詳しい特徴づけを断念する
・ある作品が、どの芸術形式に属するものとして評価するかによって、その評価の内容は変わる
・ナラデハ特徴は、適切な芸術形式に属するものとして作品を評価する際にふつう評価される諸特徴である(ビデオゲームのナラデハ特徴は、ある作品がビデオゲーム作品として評価される際に、関わる諸特徴である)
・適切な芸術形式が何かは、作者の意図をはじめとしたいくつかの基準によって判別できる
ゲームプレイ
・ある作品の受容において直接に経験される具体的な対象は、その作品の「事例」と呼ばれる
・絵画など一つの作品に対して一つだけの事例しかありえない芸術形式を「単数芸術」といい、音楽など一つの作品に対して複数の事例がありえる芸術形式を「複数芸術」という
・複数芸術が個々の事例を生じさせる手続きを「例化」という。例化される事例が物体である形式を「物体芸術」、出来事である形式を「出来事芸術」と呼ぶこととする
・例化がほとんど全面的に人の手による出来事芸術を「上演芸術」と呼ぶ。人の手がほとんど必要ない出来事芸術を「再生芸術」と呼ぶこととする
・ビデオゲーム作品の事例としての出来事を「ゲームプレイ」と呼ぶこととする
・ゲームプレイの多くの部分は、ディスプレイとコンピューターが自動で例化してくれるが、ゲームプレイの少なくない部分は、プレイヤーがコントローラーを通して何を入力するかによって、出来事のあり方が変化する
・そのため、ビデオゲームは上演芸術、再生芸術、両方の性格を持つ
・ビデオゲームは、作品の受容者が、作品の例化主体も兼ねる
・ビデオゲーム作品の受容過程は、ゲームプレイという出来事がどのように展開するかではなく、ゲームプレイという出来事をプレイヤーがどのように経験するかということである
意味作用と行為
・ビデオゲームの受容過程には、意味作用の側面と行為の側面がある(前掲)
・本書が主に扱うのは、意味作用の側面である
・一連のゲームプレイのうち、プレイヤーの行為がゲームプレイに影響を与える(インタラクティブな)状態を「オン・ライン」、インタラクティブでない状態を「オフ・ライン」と呼ぶこととする
・カットシーンなど、行為の側面を取り除いたオフ・ラインの状態であっても、意味作用は行為との関わりを持っているため、本当の意味で「映画的」になることはない
第3章:芸術としてのビデオゲーム
芸術とは何か
・ビデオゲーム(や、任意の提示形式)が芸術形式であるかは、当の提示形式の特徴を活かしながら、その提示形式を持った芸術作品を作るという慣習が成立しているかによる
・芸術作品とは、それがそれとして位置づけられる慣習内で芸術的受容の対象と見なされている人工物のことである。この慣習は、一般に「アートワールド」と呼ばれる
・芸術的受容の特徴づけは、複数のアートワールドのそれぞれにおいて異なるはずのもので、第2章で述べたように、経験的な研究に訴える必要がある
・当の慣習内で批評(評価の理由づけや正当化など)の実践が成立していることは、芸術的受容の一つの指標になる
芸術形式として扱う理由
・多くのビデオゲーム作品は、その作品を受容する慣習が芸術的受容の指標を十分に満たしており、芸術作品と言える
・そうしたアートワールドに向けて作品を作る際に、ビデオゲームという提示形式が意図的に選択されうるような慣習が成立しているため、ビデオゲームは芸術形式と言える
・ビデオゲームは娯楽のための文化形式だが、娯楽形式と芸術形式は排他的な概念ではない
・ビデオゲームをわざわざ芸術形式として論じる理由は、ナラデハ特徴を見出すには、受容や評価の慣習が明確なかたちで成立している必要があるためである
・ナラデハ特徴を明らかにすることは、批評実践において有用かつ、制作実践においても有用である
第4章:ビデオゲームの統語論
記号システム
・何かが別の何かを表す働きを「表象」と呼ぶ、表すものを「記号」と呼ぶ、表されるものを「内容」と呼ぶ
・表象は連鎖することがある
例:「りんご」という文字列 → りんご → イヴ
・記号と内容の関係はどのような条件下にあるにかによって左右されるが、それぞれの条件のもとでは記号と内容の関係は恒常的である
・多くの記号システムでは複数の記号が結合することで新たな別の記号が作り出されるが、記号が構成されたり、記号同士が関係を持ったりするレベルを「統語論」と呼ぶ
・記号と内容が関係するレベルを「意味論」と呼ぶ
・ビデオゲームでは、ディスプレイのすべての部分が記号の素材になりえるが、記号の素材になっていないものもある
・視覚的ディスプレイは多くが記号の素材になるが、聴覚的ディスプレイは記号の素材になっていないものが多い。また、触覚的ディスプレイが単独で記号の素材になることはいまのところあまりない
・BGMの多くは記号的機能を持たないが、サウンドエフェクトやジングルは記号的機能を持つことが多い
ビデオゲームのインタラクティブ性
・インタラクティブ性は、ビデオゲームの重要な特徴の一つである。しかし、ビデオゲームは、どのような意味でインタラクティブなのだろうか
・「よくできたフィクションはすべて読者の信念によって構築されるという意味でインタラクティブ」あるいは「あるものがいったんコンピュータにおいて表示されれば、それは自動的にインタラクティブになる」、よってインタラクティブ性という概念自体が理論的有用性を持たないという主張がある
・これらの主張は、区別したい事柄についての直感とその明確化から議論を始めるのではなく、「インタラクティブ」という語に字義通りの意味を与えており、本書の問いとは無関係である
・ロペスは、たんなる操作可能性を「弱いインタラクティブ性」、「興味深い」インタラクティブ性を「強いインタラクティブ性」と区別している
・強くインタラクティブな芸術作品とは、その構造的性質が部分的に相互作用者の行為によって決まるものである
・「構造的性質」とは、当の作品の美的な受容に必要な内在的または表象的性質のことである
・フロムは、構造(美的構造)の変化について、作者が意図しており受容者がそのことに自覚的であること、という要件を追加している
・スマッツは、変化の内容について、相手を完全にコントロールせず、相手から完全にコントロールされず、完全にランダムではない、という要件を追加している
・本書は、フロムの定義とスマッツの定義を組み合わせたものを支持する
・ビデオゲーム作品におけるインタラクティブ性は、プレイヤーと何の(作品のどの部分との)相互作用なのだろうか
・プレイヤーは、ディスプレイ上の要素という統語論的側面だけでなく、ディスプレイの背後にあるなんらかの実態(実行中のプログラム、より正確にはゲームメカニクス)とも同時に相互作用している
第5章:ビデオゲームの意味論
ビデオゲームの二面性
・ビデオゲームの記号によって表象される内容は、「ゲームメカニクス」と「フィクション」の二種類に区別できる
・ゲームメカニクスは、「プレイヤーによるコントローラの操作を入力データとして随時受け取りつつ、特定のルールにしたがってデータを処理し、結果をディスプレイに出力するシステム」と特徴づけられる
・プレイヤーが直接知覚できるのは、コントローラとディスプレイだけであり、プログラムはふつうプレイヤーには見えない
・ビデオゲームのディスプレイ上の記号の機能の一つは、このようなブラックボックスとしてのゲームメカニクスの内部を表象することにほかならない
・ユールなどの先行研究と比較したとき、本書の独自性は以下の3点である
・曖昧なまま使われている諸概念を整理し、それらの関係を整理する
・意味作用の観点からこの二面性を論じ、より細かく厳密に記述できる枠組みを提示する。とりわけ、ルール(ゲームメカニクス)の側面にも表象という観点を導入する
・既存の哲学的な議論に接続させることを目指す
・虚構世界(フィクション)とゲームメカニクスの違いは、「量化のドメイン」の違いである
(このnoteの筆者が雑にまとめると、ある文脈における言明の集合を観察することで、ある存在者の集合、例えば「ゲームメカニクス」が明らかになるよ的な話)
・標準的なプレイヤーは、ビデオゲームにおける二種類の文脈を実践のレベルで区別している(例えば「ルイージはマリオの弟だ」は虚構世界の文脈、「1UPキノコを取ると一機増える」はゲームメカニクスの文脈だと理解できる)
・今後前者を「虚構的内容」、後者を「ゲーム的内容」と呼ぶ
重ね合わせ
・多くのビデオゲームの多くの記号は、虚構的記号としてもゲーム的記号としても機能している。これを「重ね合わせ」の状態にあると呼ぶことにする
・重ね合わせはゲームデザイン上、ゲーム的記号を個別化するために、虚構的記号を利用できるという利点がある
・ほかにも、虚構的内容によってゲーム的内容を推測させたり、ゲームメカニクスをシミュレーションとして機能させる場合にも使われる
第6章:虚構世界
フィクションの文脈
・フィクションについて語る文脈は、作者による作品内の「虚構構成的言説」、受け手によるフィクション世界の内容についての「内的言説」、受け手による虚構的なキャラクターの現実上のあり方についての「外的言説」、ある対象が実際には存在しないことを主張する「非実在の主張」の4つに分類できる
・分類する理由は、1つの文が真だったり、偽だったりすることを、無理なく説明できるから
・「虚構構成的言説」「内的言説」には(言説が)真であるという「ふり」が関わっているが、「外的言説」の文脈では文字通りの真になり得る
・本書の焦点は、「虚構構成的言説」「内的言説」である
フィクションの特徴
・フィクションは、虚構世界を表すと同時に作り出す
・フィクションが書かれることによってフィクションに書かれたことは虚構的に真になる(作り出される)が、受け手は虚構的真理を受け入れると同時に、そのフィクションを虚構世界について述べる(表す)ものとして理解する
・後者のプロセスは、現実についての表象を理解するプロセスと同じである
・よってフィクションは、表象方式、記号システムを現実と完全に共有する
・フィクションと現実との大きな違いは、真理へのアクセス経路が非常に限定されていることである
・また、現実についての表象は無数にあるが、1つの虚構世界の表象はそれほど多くない
・二次創作のように、同じ虚構世界を描く異なる作品はしばしばあるし、原理的には無限に可能だが、それらを本当に同じ虚構世界だと確定させるべき理由はない
・つまり、虚構世界には単一性は要求されていない。一方、現実的な表象には無矛盾性が要求される
・虚構世界は不確定な部分を持つが、それは十分に作られていないと見ることもできるし、十分に表されていないと見ることもできる
(後者であれば、真理探究の欲求からすればむしろ嬉しい)
・「真理へのアクセス経路が限定されている」「単一性が要求されない」理由は、どちらも虚構世界が作り出されるものだから
・よってフィクションの特徴は、表象の対象が表象と同時に作り出されていることにある
虚構世界の作られ方
・虚構的真理・虚構世界の作られ方、つまり「虚構構成的言説」の内実は、<ふり>あるいは<ごっこ>の概念がうまく説明する
・サールの説によれば、虚構構成的言説は作者による「主張のふり」である
・カリーの説はサールの説を補完し、話し手が想定する聞き手の(ふりに対する)反応を「信じるごっこをする態度」「真であることを想像する」と特定する
・一方ウォルトンは、フィクションを「ごっこゲームにおける小道具として働くという社会的機能を持つ事柄」とする
・ウォルトンによる特徴づけをまとめると「ある事物の機能を決めるのは、当の社会における事物の取り扱いの実践である」となる
・サールやカリーの立場を「意図主義」、ウォルトンの立場を「慣習主義」と呼ぶ
・フィクション作品は虚構世界のすべてを直接描いていないが、その空所は、受容者が補完的に解釈する
・つまり虚構世界は、現実世界と同様に、時空間的広がりを持ち、描かれている以上の存在者や出来事を持つものとしてつねに想定されている
インタラクティブなフィクション
・"interactive fiction"という語の用法には、特定のゲームジャンルを指すものと、受容者がその内容に関与しうるフィクションの2つがある。前者を「IF」、後者を「インタラクティブなフィクション」と呼ぶこととする
・インタラクティブなフィクションには、受容者のふるまいに対して「物理的に反応する」フィクションと、その受容者が当の虚構世界のなかで「虚構的役割」を演じるフィクションの2つがある
・前者を「弱い意味でのインタラクティブなフィクション」、後者を「強い意味でのインタラクティブなフィクション」とする
・後者は、虚構世界との相互作用を可能にする(虚構世界に入り込む)ものである
・虚構世界への入り込みの特徴は、プレイヤーが自身についてのものとして想像する虚構的内容が、プレイヤーの行為の結果(consequence)でありうる点にある
・さらに、場合によっては、行為の事前のフェーズにおける考え(その行為をする動機・理由)も、虚構世界についての想像にもとづく
・虚構世界についての想像が受容者の行為を動機づけるためには、自身の行為が虚構世界に影響を与えうるものであることを(つまりその作品がインタラクティブであることを)受容者が理解していなければならない
・この種の受容のあり方を「自己関与」と呼ぶこととする
・一方、プレイヤーは、自分の実際の行為やその動機を、自分自身のものとしてではなく、特定の虚構的キャラクターの行為や動機として想像することもできる。この受容の仕方を「ミミクリ」と呼ぶこととする
・ミミクリには、行為者が自分自身のふるまいを特定の虚構的キャラクターのふるまいと見なすものと、行為者が自分の操作する対象のふるまいを特定の虚構的キャラクターのふるまいと見なすものがある
・前者を「模倣的ミミクリ」、後者を「操作的ミミクリ」と呼ぶこととする。ビデオゲームにおけるミミクリは、ほとんどが操作的ミミクリである
・自己関与とミミクリの区別はそれほどはっきりしたものではないが、相対的にどちらかの成分が優勢になることはある
第7章:ゲームメカニクス
ルール
・サレンとジマーマンが挙げる、ゲームのルールが持つ特徴・機能6つのうち、もっとも本質的なものは「プレイヤーの行為を制限する」ことである
・また、サレンとジマーマンは、ゲームルールの「形式性」を強調する。ルールは、それを具体化する媒体(例えば、トランプのスートの見栄えやプログラムのコード)や、それが表彰する内容からは独立している
・ユールは、ゲームのルールが行為を制限するだけでなく、アフォーダンス(意味づけ)を与えることで、潜在的な行為(新たな行為や動機づけ)を作り出すと主張している
・また、ユールは、一つのゲームに含まれる諸々のルールを、一つの「状態機械」としている。状態機械とは、初期状態を持ち、特定の入力イベントを受け付け、状態遷移関数(ルール)を使って入力に対する応答として状態を変化させ、そして出力関数を使って特定の出力をおこなうものである
・ユールの理論は「ルール」という言葉の用語法に問題がある。そのため、本書では「ゲームメカニクス」という用語を採用する
ゲームメカニクスの現実化
・アダムズとドーマンズは、ユールの状態機械に対応する語として「ゲームメカニクス」を採用している
・また、アダムズとドーマンズは、ビデオゲームのゲームメカニクスがプレイヤーから隠されているという指摘をしている
・ビデオゲームは、プログラムに従って作動するハードウェアによって現実化される。一方、伝統的なカードゲームやボードゲームを現実化するのは、そのゲームに参加するプレイヤーが共有する規範である
・現実化の媒体が物理的な事物か規範かは、現実化が自動化されているかに直結する。物理的な媒体による自動化は、ふつう自動化されており現実化を担う行為主体を必要としない
・規範による現実化は、その規範の内容を知る行為主体を必要とする
・規範による現実化の行為主体は、ふつうプレイヤー自身であるため、多くの非ビデオゲームでは、ゲームメカニクスの内容をプレイヤーに知らせないまま実行することが難しい
・逆に、ゲームメカニクスの現実化が自動化されていれば、プレイヤーがルールを把握する必要がない
・ビデオゲームのゲームメカニクスがブラックボックスでありえているのは、自動的な現実化のおかげである。ゲームメカニクスが隠蔽されていることは、ビデオゲームの重要な特徴の一つである
行為のデザイン
・ゲームメカニクスはプレイヤーが相互作用する相手である。この相互作用のプレイヤーの行為の部分を「ゲーム行為」と呼ぶこととする
・ゲームメカニクスは、ゲーム行為の対象・道具・文脈としてプレイヤーの行為をデザインする
・一般的に行為を特定のかたちにする要素は、「行為者の目的」「現実についての行為者の信念」「現実」の三つである
・よって、行為のデザインは「目的のデザイン」「信念のデザイン」「現実のデザイン」によって可能になる
目的のデザイン:目標を示す。また、目標に価値や賞罰を結び付けて、目的として合理的に受け入れられるようにする
・ゲームメカニクスが提示する目標は(一般的な目標と異なり)多くの場合、それ自体にはいかなる価値にも結びついていない
信念のデザイン:現実についての情報を与える。現実の法則についての情報を意図的に調節する
・ゲームメカニクス上の法則についての信念は、ゲームメカニクスの挙動を観察することによって獲得される。その法則を発見すること自体がしばしばビデオゲームのプレイの楽しみになる
現実のデザイン:行為者が実際に何をでき、できないか(行為可能性)をデザインする。行為可能性を制約するか作り出す
・多くの非ビデオゲームは複数の方法を組み合わせて、行為可能性をデザインしている
・ビデオゲームのゲームメカニクスにおける行為可能性は、プログラムが作られるまえには存在しない
ゲーム行為
・ゲームメカニクスは、「ゲーム行為」を作り出すよう意図されたものである
・ゲーム行為の定義で有力なものは、何らかの現実的な目的のためにおこなわれるのではなく、それ自体のために(自己目的的に)おこなわれる行為であるというものである
・アンスコムによれば、行為とは、なぜそれをするのかと問われた場合にそうする理由を答えられるものである
・行為の理由を問い続けていくと、最終的にそれ以上の問いと答えを許容しないような第一の目的にいたる。この連鎖における最後の答えは、つねに「望ましさの特徴づけ」を与える
・しかし自己目的的な行為は、最終的な答えが、それ自体としてはまったく望ましさを示すものではないことがありえる
・このことは、「押すと欲しい雑貨が手に入るボタンがある」「押すとそのゲームに勝利できるボタンがある」のようなテストによって判別できる(ふつう、前者は押し、後者は押さない)
・ゲーム行為は、目的それ自体は望ましいものではない場合があるが、その目的を受け入れることによって生じる手段の系列がそれ自体として望ましいものである行為である
美的行為
・ゲーム行為の楽しさとは何かには「快説」「学習説」「挑戦説」が考えられる。これらの理論は、それぞれ異なる観点からアプローチしており、互いに排他的ではなく、一定の説得力を持っている
・本書では、さらに「美的行為」という観点からゲーム行為の特徴づけを試みる
・美的判断は、対象を知覚するという受動レベルの事柄である。本書の考えは、行為という能動的なレベルの事柄にも、美的判断の特徴づけを適用できるというものである
・美的判断は、趣味という特殊な能力(ある種の繊細さ)を要求する物であり、誰もがあたりまえのようにできる判断ではない
・また、美的判断はその判断において使われる概念の適用条件がまったく一般化できない。しかしそれでも、その判断の仕方を他人に伝えることができる
・同様に「美的行為」は、それをおこなうのに趣味に類比的なある種の特殊なセンスを必要とするものであり、それゆえ誰もがあたりまえのようにできる行為ではない
・また、その行為をおこなう仕方が一般化できるようなものでもないが、そのやり方を他人に伝えることができる
・本書は、こうした美的行為の特徴がゲーム行為の内在的性質であると考える
・美的行為は、その「感じ」が生じるフェーズに応じて、大きく二種類に区別できる。「意思決定」のフェーズと「身体的行動」のフェーズである
・これら二種類のフェーズは原理的に独立であり、多くのゲームは、いずれか片方の美的行為の面を前面に押し出している(もちろん両方の側面を同時に持たせることもできる)
・芸術作品の制作の一つの目的は、その作品に特定の美的性質を持たせることだが、特定の美的性質を作品に持たせるための一般的な規則はない
・それゆえ、美的な芸術作品を作ろうとする制作者は、意図した美的性質を作品に持たせるために、試作・鑑賞・改変・鑑賞というプロセスを繰り返し、チューニングしていく必要がある
・ゲーム行為と美的なものの類比が適切ならば、これと同じことがゲームメカニクスの制作(ゲームデザイン)にも言えるはずである
ゲームメカニクスの定義と諸要素
・ここまでの議論から、ゲームメカニクスの定義は次のように提示できる(前掲)
・ゲームメカニクス上の諸要素は、「可能な状態」「現在の状態」「状態遷移規則」「行為可能性」「目標」「ゲーム的記号」によって記述できる
・これらのカテゴリーは、ある一つのゲームメカニクスの同一性を規定するものでもある
・ゲームメカニクス上の諸要素は、現実や虚構世界上のそれと異なり、いかなる物質的な素材とも関係なく個別化されうる
・そのため、ゲームメカニクスの時空間は離散的なものでありうる
可能な状態・現在の状態・状態遷移規則:どのような状態がありえるか、いまどのような状態にあるか、どのような状態になればどうなるか
・多くの場合、状態変化はプレイヤーの行為によって引き起こされる。一方、状態遷移規則にもとづく状態変化は、ふつうゲームメカニクスの現実化主体がおこなう
・あるいは、特定の条件を満たさなくともつねに自動的に状態が変化していく場合もある(たとえば、スポーツにおける天候)
行為可能性:プレイヤーができること / できないこと
・選択肢として離散的に用意される場合も、「この線の内側では自由に動ける」など連続的な可能性として与えられることもしばしばある
・行為可能性は、物理的に現実化されることもあれば、規範的に現実化されることもある
目標:プレイヤーがすべきこと / すべきでないこと。典型的には、勝利条件や敗北条件
・<目標>概念は<目的>概念とは区別されている。目標は、プレイヤーが受け入れるべき目的として提示されるものであり、プレイヤーが実際に持つ目的ではない
・プレイヤーは目標を無視することができるし、自分で好きな目的を設定することもできる。その種の逸脱的プレイヤーは、ゲームデザイナーが意図したのとは異なるゲーム行為をすることになる
・多くの非ビデオゲームにおいては、逸脱的プレイヤーはそのゲームをプレイしていないと見なされる
・一方、ビデオゲームについては、それほどはっきりした直感はない。ビデオゲーム作品のゲームメカニクスの同一性に、目標が含まれるかどうかは、あまりはっきりしない
ゲーム的記号:ゲームメカニクスの諸要素を伝えるための要素
・ゲーム的記号は、ゲームメカニクスについて偽の内容を伝えることもある
・偽なる記号や、ゲーム的記号についてのゲーム的記号(メタゲーム的記号)は、ゲーム行為を左右することがある
・そのため、ゲーム的記号は、ゲームメカニクスについての内容を表すと同時に、それ自体としてゲームメカニクスにも含まれうる
・ゲーム的内容を表すディスプレイ上の記号は、ゲームメカニクスに含まれうる。しかし、ゲームのプレイを見ている人の発話は、ゲーム的内容を伝えることができるものの、ゲームメカニクスに含むべきものではない
・このちがいは、ゲームデザイナーによって公式に意図された記号であるか、そうでない記号かというちがいによって端的に説明できるかもしれない
・しかしスポーツやボードゲームのルールブックなどは、公式に意図されたものであるにもかかわらず、ゲームメカニクスの一部を構成する物であるという考えは直感に反する。スポーツのルールを理解することは、それ自体としてはゲーム行為ではなくゲーム行為の準備というべきものだ
・どこまでをゲーム行為の準備と見なし、どこからをゲーム行為と見なすかは、それほどはっきりと線引きできるものではない
・この問題についての本書の見解は、ゲーム的記号とその内容を通してゲームメカニクスについて知るそのプロセスがそれ自体としてゲーム行為になるように意図されているかで判別できるというものである
・また、ビデオゲームのメカニクスには非ビデオゲームのメカニクスとくらべて、以下のような特徴がある
非規範性(ビデオゲームのプレイヤーは、それをプレイするために特定の規範を受け入れる必要がない)
自動化されている(人間の運用者を必要としない)
情報量の多い処理を許容する(多くの固体や属性を即時的に処理できる)
正確に運用される(ゲームデザイナーの意図しない「バグ」を含む)
意味論的に単純な情報しか処理できない
制度的事実
・結婚式や野球の試合などにおいて事実と見なされる事柄は、「なまの事実」ではない
・なまの事実が<結婚>や<ホームラン>などになるためには、「特定の種類の制度という背景」が必要である。サールは、この種の事実を「制度的事実」と呼ぶ
・なまの事実から制度的事実を作り出すものを、「構成的規則」と呼ぶ
・サールが構成的規則の定義と説明をするに際して持ちだしている例のほとんどすべてが、ゲームである。本書のゲームメカニクス概念に対して、サールの理論がそのまま適用できるのは明らかである
・ゲームメカニクス上の事実を制度的事実として見る理論には、ゲームメカニクス上の事柄がふつう現実の時空間に位置づけられるものであるという直感を問題なく拾え、ゲームメカニクス上の行為が現実のプレイヤーの行為であるという直感も問題なく拾えるという利点がある
・猫がコントローラを踏むなど、ゲームメカニクスの状態を踏まえたうえでなされたものではない行動は、ゲームメカニクス上の行為として見なせるものではない
・猫による状況変化について、ふつう将棋ではゲームメカニクスの状態の変化としては認められないが、ビデオゲームでは認められる。しかし、これはプレイヤーがどのような制度を受け入れているかに依存するというだけの話である
・ビデオゲームのプレイに関わるなまの事実(プレイヤーの身体的動作や、コントローラからの信号など)が、ゲームメカニクス上の事実として見なされるためには、特定の構成的規則の体系がなければならない
・ビデオゲームのゲームメカニクス上の状態や存在者、あるいはそこでの行為や出来事は、プレイヤーがなまの事実として行動している空間に位置づけられる
第8章:二種類の意味論の相互作用
類比的推論
・ゲーム的内容は、ほかの芸術形式にはないものなので、それを表す方法について独自の議論を必要とする
・記号とゲーム的内容の関係が、説明書などで明文化されているケースがある
・また、作品が属するジャンルの慣習についての知識がゲームメカニクスの理解に寄与するケースもある
・さらに、実際のゲームプレイのなかでゲーム的記号を表す記号システムが把握されていくこともある
・もっと複雑な構造を持った仕方でゲーム的内容が表されるケースがある
・『ドラゴンクエスト』の冒頭では、<フロア移動ができること>について言及がないにもかかわらず、プレイヤーは、画面右下にある記号が<階段>を表すものであることさえ理解すれば、それが<このフロアから出る>ためのゲームメカニクス上の装置を表していることを把握する
・このケースにおいて、プレイヤーは、虚構的内容からゲーム的内容を引き出している
・プレイヤーは、虚構的内容とゲーム的内容がなんらかの点で似ているということを前提にして、虚構的内容からゲーム的内容を推測している
・このプロセスは通常ほとんど意識されないが、類比的推論が失敗すると前景化する(例:開けられそうなドアが開けられない)
謎解き
・虚構的内容を通してゲームメカニクスのあり方を把握しようとすることそれ自体がゲーム行為になるのが、謎解きである
・コマンド入力式のアドベンチャーや、ポイント&クリックアドベンチャーは、虚構的内容との類比にもとづいてゲームメカニクス上の正解を推理していくゲームである
・謎解きと類比的推論のちがいは、推論のプロセスそのものがゲーム行為として成り立っているかどうか(楽しいものであるか)という点にある
・『McPixel』は形式こそ標準的なポイント&クリックアドベンチャーだが、実際には類比的推論がまったく成り立たない
・このような逸脱的な作品は、ふだんは意識されないままでいる需要の慣習を前景化させる
シミュレーション
・『SimCity』は虚構的な都市を表象するが、その表象はたんに画像やテキストだけによってなされるのではない
・プレイヤーは、都市がどのようにふるまうか、自分がおこなった行為に対してそれがどのように反応するか、といったことの観察によって、都市がどのような法則にしたがって発展するのかを理解する
・虚構的な都市の表象を成り立たせているものとして、規則にもとづいて作動する実体がある。『SimCity』は動的なモデルとして都市を表象する
・動的なモデルによる表象は、一般に「シミュレーション」と呼ばれる
・ビデオゲームにおいてモデルの役割を担うのは、ふつうゲームメカニクスである
・多くのビデオゲームシミュレーションでは、ゲーム行為とシミュレーションは(原理的には別々でもかまわないが)ほとんど切り離せない
・ビデオゲームシミュレーションでは、ゲームメカニクスは、ゲーム行為を形作るものとしても、虚構世界のモデルとしても機能する
・シミュレーションと類比的推論は、互いに排他的ではなく、しばしば同時に成立する
・大半のビデオゲームシミュレーションは、ゲームメカニクスによって虚構世界をシミュレートすると同時に、ディスプレイ上の記号によって直接的に虚構的内容を表す
・あるゲームメカニクスを何として見立てるべきかの指針が、それを表すゲーム的記号と重ね合わせ状態にある虚構的記号の内容によって自然な形で与えられるため、この種のケースが一般的であるのは合理的である
・シミュレーションは、複数回の不特定の試行を可能にするという特徴から、特定の個別的な出来事よりも、一般的な法則を描くのに適している
・シミュレーションは、それ特有の表現能力を持つ。それはもちろん(類比的推論、謎解きと同様に)ビデオゲームが持つナラデハ特徴の一つとして数えるべきものである
第9章:ビデオゲームの空間
ビデオゲームの空間表象の分類
・ビデオゲームの空間表象に関する先行研究のうちいくつかは、<空間によって表象すること>と<空間を表象すること>を混同している
・ウルフは、ビデオゲームにおける空間的構造または空間的配置を11個のタイプに分類しているが、互いに排他的な項目とそうでない項目が並列されている
・吉田は、ウルフの議論を前提としたうえで、「視点」と「スクロール」を分類しているが、複数の観点が含まれており、概念的な曖昧さを持っている
・フェルナンデス、バラらは、「ゲームにおける空間性」を「表象される空間」「ゲーム世界」「ゲームプレイ」という三つのレベルに区分した上で、「ビデオゲームにおける基本的な空間構成」を、次の三つの分類軸の掛け合わせによって分類している
・空間の表象が、二次元であるか三次元であるか
・「ゲーム世界」が展開する方向が、一次元方向か二次元方向か三次元方向か
・画面の展開の仕方が、固定画面か、画面の離散的な切り替わりか、画面の連続的なスクロールか
・この分類は、分類軸を明確に区別することで、その掛け合わせによる分類を可能にし、体系的な分類を可能にするという理論的なアドバンテージがある
・しかし彼らの議論には、分類軸の定義において使われる概念の規定が十分ではないという難点もある
統語論的空間
・画像表象において、表すもの=記号のレベルと、表されるもの=内容のレベルは、概念的に明確に区別できる。前者は二次元的な構図であり、後者はそれによって描かれる三次元的な事物や空間的に広がりである
・前者の記号としての空間を「統語論的空間」、後者の内容としての空間を「意味論的空間」と呼ぶこととする
・統語論的空間は、画像表象の記号となる素材に二次元的な位置属性や位置関係を与えるための潜在的な枠組みである
・純粋に統語論的な意味でのスクロールは、そのようなモニタ画面外に広がる統語論的空間を画面内に順次表示していくための手法である
・日常的な概念としての「スクロール」は、純粋に統語論的空間の観点から定義できる概念ではなく、複数の観点が混在した曖昧な概念であり、理論的な記述概念として使うのは適切ではない
・ビデオゲームの画面構成についても純粋に統語論的に定式化できる
意味論的空間
・どんな空間が表象されているかという点も、意味論的空間の観点から定式化できる
・意味論的空間は、虚構世界内の存在者に位置属性や位置関係を与えるための潜在的な枠組みである「虚構空間」と、ゲームメカニクス上の存在者に位置属性や位置関係を与えるための潜在的な枠組みである「ゲーム空間」の二種類に区別できる
・ゲーム空間は、当のゲームメカニクス上の存在者がとりうる位置属性の総体と、それぞれの位置属性の関係の総体として定義される
・虚構空間は、ふつう連続的な三次元空間である
・一方、ゲーム空間は、二次元の場合もあれば、三次元の場合もある。多くのノベルゲームジャンルの作品のように、ゲーム空間をまったく持たない場合もある。またある種の音楽ゲームは、一次元のゲーム空間を持つと言えるかもしれない
・さらにゲーム空間は、その密度にさまざまな程度がありえる。将棋のように離散的な二次元ゲーム空間もあれば、『大乱闘スマッシュブラザーズDX』のように相対的に連続的な二次元ゲーム空間もある
・ゲーム空間が二次元か三次元か、あるいはゲーム空間の密度がどれほどかということと、そのゲーム空間がどのような視覚から表象されているかということは、本質的には独立である
遠近法
・意味論的空間が二次元の統語論的空間を通して画像的に表象される場合、両者の空間を一定の仕方で対応づけるなんらかの記号システムが成り立っている。このような記号システムを「遠近法」と呼ぶこととする
・個々の事物を描くのに使われる遠近法と、それらの事物を全体的な空間のなかに位置づけるのに使われる遠近法は異なる場合がある
・多くのビデオゲーム作品は、ゲーム空間と虚構空間を同じ遠近法で表象するが、原理上は、虚構空間とゲーム空間は、それぞれ別々の遠近法を使って表象することができる
・ゲーム空間を描くのにどの遠近法を採用するかによって、ゲーム空間は変わらないが、ゲームメカニクスが変わるということはありえる
・ゲーム空間とそれを表象する遠近法を分けて考えることで、どのような遠近法とゲーム空間が相性がよいのかという議論が可能になる
第10章:ビデオゲームの時間
ビデオゲームの時間
・本書の意味作用の理論にしたがえば、ビデオゲームの時間は「統語論的時間」「ゲーム時間」「虚構時間」の三層に区別できる
・物語論における時間の二層モデルは、「物語言説時間」「物語内容時間」からなる
・物語言説時間は、物語言説(物語作品のテキスト)が進むための現実の時間であり、物語内容時間は、表される虚構世界上の時間である
・ビデオゲームにおける物語言説時間は、映像や音声がディスプレイに表示される現実の時間である。ビデオゲームは必ずしも物語ではないため、「統語論的時間」と呼ぶこととする
・ビデオゲームにおける物語内容時間の対応物(「意味論的時間」)について、それぞれが記述する出来事のドメインが虚構世界のものを「虚構時間」、ゲームメカニクスのものを「ゲーム時間」と呼ぶこととする
層の対応
・これら三つの時間の層は、互いに別物であるが、表象にもとづいた対応関係がある。虚構時間とゲーム時間は、どちらも統語論的時間によって表象される
・虚構正解を流れる時間は、連続的な時間である。一方、ゲーム時間は、連続的な場合もあれば離散的な場合もある
・連続的なゲーム時間では、統語論的時間の時間幅がほとんどそのままゲーム時間の時間幅に対応しており、離散的なゲーム時間では、統語論的時間の一定の時間幅に対してゲーム時間の一つの時点が対応している
日常的な諸概念の定式化
・ゲームスピードの定式化は、物語論におけるスローモーションやファストモーションの定式化を応用できる
・映像作品における速度は、物語言説時間の幅と物語内容時間の幅の相対的な関係によって説明される。物語言説時間の幅が相対的に長くなるのがスローモーションであり、逆がファストモーションである
・それに対し、ゲームスピードは統語論的時間とゲーム時間の関係によって定式化される
・統語論的時間とゲーム時間の対応が一時的に無効になるのがポーズであり、再び有効になるのがポーズ解除である。ただし、さらに次の二つの条件を追加する必要がある
・ゲーム時間の停止中にはゲームメカニクスのへの入力ができない
・ポーズの開始と解除がプレイヤーの任意になる
・セーブ/ロードは、ポーズ/ポーズ解除と一見ほとんど同じ定式化ができるが、一つのセーブに対するロードは標準的には複数回ありえる
・結果として、セーブ時点までの時間を共有するゲームメカニクスのコピーを、複数存在させることができるようになる
・それゆえ、セーブとロードのシステムは、時間の分岐、過去のやりなおし、ある時点の反復といった現実にはあり得ない時間のあり方を、ゲームメカニクス上で実現することを可能にする
・おおよそ2000年代以降、アニメーションやライトノベルなどのなかでいわゆる「ループもの」の物語類型が成立するが、これは明らかにビデオゲームが持つこの特徴に一つのヒントを得たものだろう
・しかし、ビデオゲームにおけるセーブ/ロードのシステムは、本来的にゲームメカニクスのレベルの話であって、虚構世界のレベルでの話ではない
・ループものは、ビデオゲームの特徴というより「ゲームの比喩としての物語」の特徴である
・カットシーンが流れているあいだは、ビデオゲームの時間は物語の時間と同じく、統語論的時間と虚構時間の二層になる
・しかし、カットシーンにおける表象内容のなかに、ゲーム行為に関わりのある情報が含まれることはよくある。それゆえ、時間の構造が映画と同じだとしても、カットシーンはビデオゲームならではの演出法として考えることができる
リアルタイム/ターンベース
・リアルタイムは、<そのあいだ(少なくとも一時的に)ゲームメカニクスへの入力可能性があり、かつ、プレイヤーが何の入力をしなくても統語論的時間の進行に対応してゲーム時間が進行する可能性がある>という特徴を持った時間のあり方である
・ターンベースは、<そのあいだ、ゲームメカニクスへの入力可能性があるのは、統語論的時間の進行に対応してゲーム時間が進行する可能性がない場合にかぎる>という特徴を持った時間のあり方である
・離散的なゲーム時間を持ったリアルタイムはある。また、連続的なゲーム時間を持ったターンベースも、定義をゆるめれば、ある
・リアルタイムかターンベースかは、ゲームプレイをどういうスケールで眺めるかによって変わることもある
第11章:プレイヤーの虚構的行為
虚構的行為文(FA文)
・プレイヤーSについて「Sはキノコを取った」などの、虚構世界内の行為をフィクションの受容者に帰属させる文を「虚構的行為文(FA文)」とする
・FA文には、個別的な出来事としての行為が位置づけられる空間と、それをおこなう行為者が位置づけられる空間とあいだに存在論的なギャップがある
先行研究
・FA文を、われわれがなぜごく自然に使用するのかの合理的な説明には、フィクションの観点から見たときに以下のような先行研究があるが、いずれにも問題がある
・経験説
主張:FA文は、虚構世界に「没入」しているかのような経験についての文である
問題:FA文は、一般的に主観的経験を表すものではない
・バーチャル説
主張:プレイヤーの行為は、現実的でも虚構的でもなく、「バーチャル」な行為である
問題:「バーチャル」が十分に規定されていない
・フィクション説
主張:FA文は虚構的に真であり、ごっこの実践が成り立っている
問題:想像の中での行為主体は、現実のプレイヤーではない。また、フィクション説はビデオゲームの特徴を取り逃している
・インタラクティブなフィクション説
主張:「虚構的真理」は、作品世界についての「虚構的真理」とごっこ世界についての「虚構的真理」に区別されるが、ビデオゲームは作品世界とごっこ世界の区別は曖昧である
問題:ビデオゲームにおいても、作品世界とごっこ世界の区別は厳然としてある
・FA文が表す行為は、バーチャルなものでも虚構世界上のものでもなく、現実の行為である、とする主張を検討する
・現実説
主張:FA文は、現実の行為を指す
問題:「キノコを取る」などのような表現が、実際にどんな現実の事態を指しているのかが説明されていない
・指示移行説
主張:プレイヤーの志向的対象は、表象された虚構的な出来事から、コンピューターによって生成された空間視覚的なグラフィカルな形状に変わる
問題:プレイヤーは、画面上の特定の形状それ自体に対してなんらかの行為をすることを意図しているわけではない
松永説
・本書では以下の説を提唱する
・ゲームは、そのゲームメカニクス内でのみ可能の行為(ゲーム行為)を作り出す。ゲーム行為は、しばしばその行為をはっきりさせるために導入された専用の記号によって特定かつ表象され、結果としてその記号の名前を使った言語表現によって記述される
・虚構世界を描くビデオゲーム作品は、ゲーム行為を特定・表象する記号が、ふつうその虚構的内容にしたがって個別化される
・結果として、虚構世界を描くビデオゲーム作品におけるゲーム行為の記述は、虚構世界についての語彙を使ってなされることになる
ゲーマーのジレンマ
・ゲーマーのジレンマと呼ばれる「ゲーマーは、直感的に、バーチャル殺人の行為は道徳的に許容可能だが、バーチャル・ペドフィリアの行為は道徳的に許容不可能だと思ってる」という矛盾は、以下のように説明できる
・プレイヤーの行為は、文字通りにはゲーム行為であり、行為の対象という点では倫理的なちがいはない
・バーチャル殺人とバーチャル・ペドフィリアがともに抽象的なシステムに対する行為だとしても、それを表している虚構的内容が異なる
・バーチャル殺人の行為者は、殺人を表象する記号を好んで選んでいるのに対し、バーチャル・ペドフィリアは小児性愛を表象する記号を選んでいる
・殺人の表象に喜ぶことは倫理的に許容可能だが、小児性愛の表象に喜ぶことは倫理的に許容できない
第12章:行為のシミュレーション
モデル化
・この章では、ゲーム行為と特定の虚構的内容のあいだの有契性を、行為のシミュレーションの写実性という観点から説明する
・シミュレーションは、<動的なモデルによる対象システムのモデル化>である
・シミュレーションは「挙動のルール」を備えている。また、モデルの挙動のルールと対象システムの挙動のルールは何らかの点で似ている。これらのことが、シミュレーションとそのほかの表象を区別している
・ビデオゲームをシミュレーションとしてとらえる場合、モデルはゲームメカニクス、対象システムは虚構世界と考えるのが自然である
行為のシミュレーション
・ビデオゲームを行為のシミュレーションとしてとらえると、いくつかの特徴が導かれる
・プレイヤーの行為の自由
・対象システムのうちになんらかの行為者が含まれている
・モデルに対する行為と対象システム上の行為は、ふつうごく狭い点でしか似ていない
・行為のシミュレーションは、必ずしも強い意味でもインタラクティブなフィクションやミミクリとして機能するわけではない。また、強い意味でもインタラクティブなフィクションやミミクリのすべての行為が行為のシミュレーションであるわけでもない
・行為のシミュレーションと、没入やなりきりを概念的に区別することで、プレイヤーの心理的側面を持ち出すことなくプレイヤーの行為と虚構世界の行為の有契性を説明できる
行為のシミュレーションの写実性
・写実的な表象は一般に有契性を持つ。ビデオゲームにおける行為のシミュレーションの写実性は、ゲームメカニクスに対する行為と虚構世界上の行為のあいだに有契的な関係をもたらす
・カルヴィッキは、画像の写実性の基準として次の三つを挙げている
・内容(情報量)
・描き方(正確さ)
・種類(われわれが慣れ親しんでいる表象システムにどれだけ則しているか)
・簡単に言えば、シミュレーションの写実性は、種類の写実性の基準に反しないかぎりで、正確かつ情報量の多いかたちで対象システムをシミュレートすることによって成立する
・正確さと情報量の多さという基準は基本的には正しいが、必ずしも当てはならない。シミュレーションの写実性は、なんらかの情報の関連性を前提している
・何が関連ある情報であるかは、シミュレーションの目的、つまり対象システムのどの側面のモデル化がどの程度まで目指されているかに依存する
・また、シミュレーションの写実性は、対象システムがどのようなものとして考えられているかにも依存する
・ビデオゲームシミュレーションの写実性に直接かかわるのはゲームメカニクスのあり方であって、グラフィックは基本的に関係ない
・『電車でGO!』が目指す行為のシミュレーションは、一人称視点を採用してはじめて成り立つ
・一般化すれば、対象システム上の行為の特定の側面を写実的にシミュレートしようとする場合、シミュレートされる行為者の知覚がその側面に関わるかぎりで、その知覚のあり方もモデルに組み込む必要がある
終章:そして遊びの哲学へ
・本書では、ビデオゲーム作品の受容過程における意味作用の側面を主に扱った。一方で、行為の側面は断片的にしか取り上げていない(第6章、第7章)
・第7章では、ゲームメカニクスを定義するためにゲーム行為の定義が必要だった。ゲーム行為は自己目的的な行為として定義され、その内在的な性質についての試論が美的行為という概念を中心にして展開された
・美的行為という概念は、ビデオゲームにかぎらずゲーム一般を行為の芸術としてとらえてはどうかという理論的な意図のもとに導入された
・人間の活動は、世界から働きかけられる側面(知覚・認知)と、世界に働きかける側面(意図・行為)に二分できる。前者で使われる能力が特定の仕方で(おそらく自己目的性や快を伴う仕方で)働くことが美的経験だという考えがありえる。そして、そのような経験をもたらすべく意図的に作られた人工物が芸術作品だという考えも可能だろう
・筆者のアイデアは、意図や行為の側面にも、これと類比的なことが言えるのではないかというものである
・遊びの哲学がはっきりした輪郭を持ってあらわれてくるとすれば、遊びをめぐって議論する実践が立ち上がるときだろう。こうした実践はおそかれはやかれビデオゲーム文化とその隣接領域で成立するだろう
・美的行為や行為の芸術という概念が遊びやゲームを特徴づけるものとして適切であるかは、そのときにあらためて試されることになるだろう
感想・気になったポイント
・ゲームデザインやゲームの評論をするとき、ゲーム的内容と虚構的内容の区別は自然に行っていたが(TCG、特に『Magic: The Gathering』に慣れ親しんでいるプレイヤーは、この手の区別をメカニクス・フレイバーという形で自然に行う)、それがより厳密に記述されていて良かった
・類比的推論とシミュレーションなど、より細かく良し悪しを考えられるし、人に説明するときもやりやすい。恐らく、この本の最も実用的なポイントだと思う
・定義のしかたも、定義を作ることに真面目に取り組んでいなかったので勉強になった
・第7章の「押すとそのゲームに勝利できるボタン」の話は、この本に登場する「われわれの直感」の中でもっとも共感できなかった
・自分はボタンを押し、その上で「面白くないゲームだった」と評価するだろう。その上で、押さずにプレイすることはあるかもしれないが、それはある種の「縛りプレイ」である
・例えば、TCGにおける「縛りプレイ」(そのカード強すぎるから使わないで)は、カードセットの変更というゲームデザインだし、もしMODでボタンを消去したら、それもゲームデザインだろう
・つまり、ボタンを押さないことは、プレイの態度ではなく、ゲームメカニクスの変更のように自分には思えるという話
・そもそも「押すとそのゲームに勝利できるボタンがあります」と言われたとして、それで本当に勝利を確信できる状況が具体的にあまり想像つかない。(言うてもさすがに勝たんやろ、となる)一度押したことがある状態ならそうなるだろうが、それで「面白くない」のは普通のゲーム、例えばポイント&クリックアドベンチャーと同じことな気がする
・この辺の話も、「ビデオゲーム作品のゲームメカニクスの同一性に、目標が含まれるかどうかは、あまりはっきりしない」ということかもしれない
・また、同じ個所で「多くの非ビデオゲームにおいては、逸脱的プレイヤーはそのゲームをプレイしていないと見なされる」と非ビデオゲームを除外している理由も分からなかった
・非ビデオゲームも、上達などのサブ目標を優先してプレイすることはあるし、公的な目標を完全に阻害するような激しい逸脱は、ビデオゲームでも同じプレイと見なされないことはあるのでは?
・この本は、マルチプレイのビデオゲームを議論の対象外にしているのに、非ビデオゲームの例はマルチプレイのゲームなのも、混乱の原因かもしれない
・これも第7章。例えばゲームデザインのセオリーのようなものは沢山あり、それを実行すれば特定の美的性質を作品が持つ確率は上がる(どちらかと言えば、特定の損ない方を防ぐ方法を知れるという感じかも)ので、「特定の美的性質を作品に持たせるための一般的な規則はない」は、あまり同意できない
・そもそもそういう話じゃないのかもしれないが、よく分からない
・第11章の「ゲーマーのジレンマ」の説明は、個人的はあまり説得的ではなかった。以下のような説明も考えられるかもしれない
・「殺す」はゲームメカニクスの説明としても比喩としてもよく使われるが、ペドフィリアはそうではない。そのため、後者の方がより虚構的な側面を重く感じやすい
・また、ゲームの「殺す」を倫理的に批難する人がたまに居るが、このような人もゲームメカニクスの「殺す」に慣れ親しんでいないため、虚構的な側面として捉える傾向にあるのではないか
・あんま本題とは関係ないけど、第6章で『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』の「ビアンカ・フローラ」が出てくるけど、これって当時のプレイヤーが本当に真剣に検討するような問題だったんだろうか?
・パッケージではほとんどの場合、ビアンカがメイン。『ドラゴンクエストV』側がフラットな選択肢かのように見せ始めたのは、2014年のスマホ版が初だと思う
・これは、メインルート(ビアンカ)から外れてもそのまま進行するというとこが驚きポイントで、真剣に悩むような選択肢ではなく(あるいは、あくまで『ドラゴンクエスト4コママンガ劇場』を始めとする二次創作の題材にする範囲で)、近年の「ビアンカ・フローラ(デボラ)論争」みたいなものは「誰々ちゃん推し」みたいな盛り上がりに、スクエニが(スマホ版で)便乗しただけのような気がする
・この記事によると、当時はビアンカが約8割。
(読書会で参考にしたウェブページ)
最後にもう一度本のリンクを貼っておきます。おすすめの本です。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?