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100年経っても心揺さぶる、ロックンロール【夏目漱石】の有名なライブアルバム「私の個人主義」より

東京大学出身の引きこもり野郎、夏目漱石。
近代化の大きく変化する世の中で
悩み抜いて見いだした光は、
100年経った今も私たちの魂を揺さぶる。

そして、めっちゃロックンロールだ。

私はこの自己本位という言葉を、自分の手ににぎってから大変強くなりました。

夏目漱石

「私の個人主義」は、漱石晩年の1914年に、学習院大学で学生に向けた講演の記録です。
つまり、ライブアルバムってことですね。

夏目漱石の「私の個人主義」には、
「本当の自分」に突き抜けた漱石自身の喜びに満ちた体験が、
実に生き生きと語られています。

かつて「本当の自分」を求めて苦悩し、その果てに「自分本位」という境地に抜け出た喜びが、ここに熱く語られています。

天才漱石も、かつて悩みまくっていたんだ。

でもって、「自己本位」にたどり着き救われた。

この講演(ライブ)では、
今の世の中は「他人本位」に生きる人が多いが、
自分は「自己本位」生きてきたことを語ります。
そして若い人たちも自己本位に生きる道を進めます。

後半では、
権力と金力とともに得られる自由。
そして他人の自由も尊重すべきこと、
そして権力と金力を持つ人間として
果たすべき義務について熱く語ります。

思索の原点は「自己」。そこを出発点とせよ、ということを熱く語ったのです。

漱石は自己本位の対義語として、「他人本位」という概念を用いています。

「他人本位」というのは、
自分の酒を人に飲んでもらって、
後からその品評を聴いて、
それを理が非でもそうだ
としてしまういわゆる人真似を指すのです。

それって、自分の感想じゃないじゃん!

要は、他人の思想だったり、知識だったり、詩だったりを
自分で考えもせずに、鵜呑みにして、見せびらかせることを
「他人本位的」な振る舞いだと一蹴するわけです。

漱石は「自己本位」という言葉を得るまでは、
非常な不安にかられていました。

東京大学時代、英文学を学んでいた3年間。

自分が学びたい文学、あるいは探求したい文学との間に
大きなギャップを感じていたのです。

その後、教えられるだけではなく、
自力で学ぼうとして、図書館で書物をあさるも、
当時英文学に詳しい文献も当時なかったのです。

とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです。私の煩悶は第一ここに根ざしていたと申し上げても差支ないでしょう。

このような大学時代を歩んだ後、漱石教師となり松山から熊本へと点々としました。

大学時代から教師、そして「自己本位」という言葉を得るまで、漱石が終始抱えていたのは「漠然とした焦り」だったのです。

天才漱石も、漠然と焦っていたのだ。

私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。そうしてどこからか一筋の日光が射して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条で好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも嚢の中に詰められて出る事のできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥り抜ぬいたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝な日を送ったのであります。

いったん外国へ留学する以上は多少の責任を新たに自覚させられるにはきまっています。それで私はできるだけ骨を折って何かしようと努力しました。しかしどんな本を読んでも依然として自分は嚢の中から出る訳に参りません。この嚢を突き破る錐は倫敦中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹の足しにはならないのだと諦めました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。

努力したが、もう何をやっていいかわからねえ。

この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟った。

わからないなら、自分で作りゃいいじゃん!!

私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽けり出したのであります。ーー私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。

俺を熱くする言葉は「自分本位」だッ!

自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでははなはだ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出してみたら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。

倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。

ロンドンの生活は本当にしんどかったゼ。

ましてその頃は西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従して威張ったものです。だからむやみに片仮名を並べて人に吹聴して得意がった男が比々皆みな是なりと云いたいくらいごろごろしていました。他の悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです。たとえばある西洋人が甲という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触れ散らかすのです。つまり鵜呑と云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし、とうていわが所有とも血とも肉とも云われない、よそよそしいものを我物顔にしゃべって歩くのです。しかるに時代が時代だから、またみんながそれをめるのです。

自分の腑に落ちるかってのは、大きいよ。

もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、しかしもしそうでないとしたならばどうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。

自分の鶴嘴(ツルハシ)で掘り当てろ。

自分の「これだ!」ってところを掘り当てろ!

前申した、仕事をして何かに掘りあてるまで進んで行くという事は、つまりあなた方の幸福のため安心のためには相違ありませんが、なぜそれが幸福と安心とをもたらすかというと、あなた方のもって生れた個性がそこにぶつかって始めて腰がすわるからでしょう。そうしてそこに尻を落ちつけてだんだん前の方へ進んで行くとその個性がますます発展して行くからでしょう。ああここにおれの安住の地位があったと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しっくり合った時に、始めて云い得るのでしょう。

YOUには、YOUの適性ってのがあるッ!

第一にあなたがたは自分の個性が発展できるような場所に尻を落ちつけべく、自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進しなければ一生の不幸であると。

YOUにぴったり合った仕事をしないと不幸になるぜッ!

個性を発揮できる場所を求めろ!

私は他の存在をそれほどに認めている、すなわち他にそれだけの自由を与えているのです。だから向うの気が進まないのに、いくら私が汚辱を感ずるような事があっても、けっして助力は頼めないのです。そこが個人主義の淋しさです。個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、ある場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。

自己の個性の発展をしようと思うなら、
同時に他人の個性も尊重しなければならない。


自分本位で生きると
時に、ひとりぼっちになることもあるけどね。

でも、「自分本位」で生きろッ!!

漱石さん!
あんたロック過ぎるよッ!
魂、揺さぶられるよ。


最高だよ、100年経っても色あせない
ロッケンロールをかき鳴らしているぜ!
あんた!

でもって、漱石さん!あんた、名コーチだよ!!あんたに導かれたよ!

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