Paris, je t’aime.
9月からちょっとのあいだnoteをお休みすることにした。その前にパリでのことを書いておきたいなぁと思った。
私が初めてフランスに留学したのは2005年の10月だった。
ほとんどフランス語が話せず、空港に到着した時には迎えの人が遅刻していていない…
空港で途方に暮れた。
パリの冬は暗く、寒く、そして寂しかった。
モンマルトルで一人暮らしをしているマダムの家で私はホームステイをすることになった。
彼女はルーヴル美術館で学芸員をされていた方で、フランス語が話せない私にも丁寧にフランス文化や美術のことなどを教えてくださった。旅行に行くときは、いつもお弁当を持たせてくれた素敵な方だった。
平日は毎日メトロ4号線か96番のバスに乗り、サンジェルマン・デ・プレにあった語学学校に通った。
本当にフランス語を初心者クラスから始めたので、英語で話す方が断然楽で、最初は英語でしか話していなかった。
そのうちスイスやアメリカ、ブラジル、イタリアから来た留学生と仲良くなり、週末は一緒に飲みに行ったり、映画を見に行くようになった。みんなフランス語のレベルはヒヨコ並だったけど、「英語は禁止ね!どんなに下手でもフランス語で話すぞー!」と一期団結し、ゆっくりではあるがフランス語で少しずつ話せるようになった。
パリにいた時、私は二つの問題を抱えていた。一つは留学に必要な滞在許可証の手続きがうまくいかなかったこと。たらい回しにされ、疲れ果て、パリとパリの人たちが嫌いになった。
もう一つは、留学直前に父の癌がわかったこと。抗がん剤治療をしている父を支えることができないのに、自分は留学なんてしていていいのだろうかと、セーヌ川を眺めながら毎日泣いた。
そんなある日、以前も書いた日本人フローリストの友達が、「zoéちゃんはエステティシャンになりたいんでしょ?学校は決まってるの??」と尋ねてきた。
行きたい学校はあるけど…とモジモジしていたら、「じゃあ今から行ってみようよ!」と彼女が背中を押してくれ、二人で学校の前まで行ってみることにした。
アポイントメントもない私たちが学校に入れるわけないのだが、偶然学生さんがドアを開けた瞬間にさっと入って、私たちは突入したのである。(本当はいけない)
「あのー、私エステティシャンになりたいんです」と受付で、自分が知っているフランス語だけで伝えてみた。
すると受付の方があっさりと校長との面談を設定してくれて、「志望動機書を持ってきてね!」と言われた。
そこからのフランス語の猛勉強がすごかった。先生をつかまえて文章の添削をしてもらい、日本語も英語も封印した。
看護師・保健師の国家試験の時ですらあんまり勉強しなかった私が、ものすごい勉強をした。多分人生で一番勉強したのは、この時とフランスでエステティシャンの資格を取った時だと思う。
いよいよ面談の日。
学校の先生にたくさん添削してもらった文章を読んでもらい、自分がどうしてソシオエステティシャンになりたいのかを説明した。
校長先生は私の熱意は評価してくれたものの、フランス語のレベルがまだ足らず、エステの授業についていけないだろうと仰った。
結果は惨敗。しかしパリにきて初めて何かをフランス語で出来た瞬間だった。もちろん友達の後押しもあったが、自分から動かないと何も始まらないんだということを学んだ。
その2年後、私はエステティシャンの資格をフランスで取得した。
幸いなことに父は癌を克服し、元気に過ごしている。
また滞在許可証もその後無事に取れ、留学は問題なく終了した。
留学後も何度もパリを訪れているが、あの時のほろ苦い思い出が蘇って、今でも胸がキュンすとる。街のあちこちに濃厚な思い出がありすぎるのだ。
あぁ、ここで迷子になったな。
日曜が暇過ぎてオペラのブックオフばっかり行ってたな。
ルーヴルのピラミッドの下によくいたなー(ダヴィンチコード大人気の時代)
この橋の上でいつも泣いていたなー。
ノートルダム大聖堂が唯一癒しの場だったなぁ。
ちょっとしょっぱい思い出ばかりだが、あの時の苦い経験があるから今がある。パリは私にとってそんなふうに思わせてくれる街だ。
あんなに嫌いなパリだったのに、3年前に久しぶりに訪れたときはメトロや道をしっかり覚えていた。この街に自分が以前住んでいたのだと実感した。
今の私はあの頃の私と似ている。
自分が置かれている状況がとても不安なのに、前に進むチャンスの時でもあると思っている。
パリで友達が私の背中を押してくれたように、今度は自分で背中を押そう。
最後に。
Paris, je t’aime!! パリ、愛してる!
明日は8月のまとめをあげたいと思いまーす。よろしくお願いします^_^
サポートしてくださるとめちゃくちゃ嬉しいです!!