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就活生がダイバーシティに対して思うこと

はじめに

はじめまして!Erikaです。
私は、就職活動中の大学四年生です。

就活を通して、ダイバーシティに対する自分の思いを発信したいと考え、ブログを書いてみました。

就職活動における多様性という話ではなく、多様性を認め合う社会を作るためには何が問題で、何が必要か?ということについて、自分の考えを語りました。

当たり前を世の中に浸透させるために

就活を通して様々な企業の説明会を受けた際に、「私たちはダイバーシティを大切にしています!」といったお話を聞く機会が多々ありました。

今の世の中では多様性を認め合うべきで、差別をしてはいけないということは、周知の事実になりつつあるのだと思います。

それなのに、現状において様々な人が苦しんでいるのはなぜでしょうか?

私は、差別はやめようと意識してなくなるものではなく、人の無意識の奥底から生まれるのだと思います。

だからこそ、その無意識の部分を変えていくべきであり、そのためには一人でも多くの人が発信して、みんなの当たり前に疑問を投げかける必要があります。
そのために私はブログを書くことにしました。

無意識的な「区別」をなくしたい

私は友人との会話を通して、これって悪意ないかもしれないけど差別じゃない?と違和感を感じことが何度かあります。

ある時に、学校に女装をしている男の子がいて、「あの子は勇気があって尊敬する。すごい。かっこいい。」と誉められていたことに、強い違和感を覚えました。

あの子は尊敬してもらいたいんじゃなくて、好きな服を楽しみたいだけなんじゃないの?と思いました。好きな服を着ているだけなのに、「自己主張をしている」「勇気を見せている」というような、一線を画した見方をされているのが、ものすごく勿体無いと感じました。

このような、「LGBT」と「そうではない人」というように、区切りをつけて人を判断することは、無意識的な差別なのではないか?と考えました。

「外国人」ではなく「〜さん」

私には、フランス人の親しい友達がおり、日本人の友達からその子について聞かれることがしばしばあります。

その時に、質問の内容が「その子自身がどういう人か?」ではなく、「フランス人ってこうじゃないの?ああじゃないの?」というものが多いことに、しばしば違和感を感じます。

また、フランス人と聞くとお洒落なイメージを持たれて、「羨ましい!」と言われることが多々あります。

褒め言葉のように聞こえますが、このような見方は危険信号なんじゃないかなと思います。

なぜならば、「〜人」かで人を判断する見方は、「外国人」と「日本人」の間にある大きな隔たりの上に生まれるからです。

人種で人の人格を判断できるわけがないのに、その当たり前なことが全然世の中に浸透していないのだと感じます。

悪意がないからこそ解決が難しい

私自身も、過去に意識的に「外国人」を一括りに考えてしまったと、反省している出来事があります。

スペイン人の友人に、「フランス人の友達に扇子をプレゼントしたいんだけど、日本に住んでいる外国の人ってこういうの好きかな?」と聞いてしまいました。

そのスペイン人の子は、「どこから来た人じゃなくて、その人がどんな人かでプレゼントを選んだらいいんじゃない?」と優しく言ってくれたのですが、悪気なく「外国人」と一括りに見てしまったなと、大変反省させられる出来事でした。

このような実体験があることから、みんな悪意があって人を区別しているわけではないのだと実感しています。
そして、悪意がないからこそ解決が難しいのだと思います。

こういう無意識の部分に対し、少しでも多くの人が問題提議をすることで、みんなの価値観が少しずつ変わっていくと考えました。

世の中に対して私ができること

私は、東京レインボープライドに参加した時に、カラフルで素敵な空間だと感動しました。

しかし、家に帰る途中で、あれは現実とはかけ離れた世界だったのではないか?差別のない世の中を作ることができるのか?と考え始め、少しネガティブな感情になってしまいました。

そのことを友人に話すと、「ゲイが病気だと思われていたような時代から、現在までこんなに変わってきた。みんながアクションを起こして時間をかければ、確実に世の中は変わっていくんだよ!悲観的になる必要はない!」と言ってくれました。

その子のいう通りで、一人一人の発信が積み重なって社会全体の問題となり、みんなで力を合わせていい方向に変えていくことができるのだと思います。

私もこれから、自分の意見を発信して、世の中に少しでもインパクトを与えたいです!

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