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子育て本を読みはじめたきっかけと、子どもと暮らすということ

僕たちも主が高校生くらいの頃までは、「いずれ結婚して子どもを持つ」ことが当たり前のように通るべき道だと思っていた。

今、僕たちは子どもと暮らす経験を望まなくなっている。


※この記事の内容はあくまで僕の主観的意見であり、他者に強要したり、誰かを批判する意図で書いているわけではない。


【きっかけ】繰り返すことの恐怖心

遠い未来に思いを馳せるというのを、よくしていた。

どんな大人になりたいか、どんな老人になりたいか、どんな人として死にたいか……よく考える。

これは幼稚園か小学校低学年くらいの頃からの癖だ。
当時持ち合わせていたありったけの想像力を使って「大人になったら……」を考えていた。これは今も変わらない。

「結婚」と「子ども」のこともその想像の中に含まれていた。
多分、日本社会に根付いた価値観と、周りにいる大人は大体子持ちである(幼稚園の保護者なんだから当たり前だ)ことが影響していたのだろう。

僕はもともと子どもと遊ぶのが好きで、幼稚園教諭か保育士になりたいと思っていた時期もある。
子どもが生まれたら、きっと楽しいんじゃないか。
産まなきゃいけない(思い込み)のなら、楽しい方が嬉しいんじゃないか。

そうやって子どもと暮らす想像を膨らませていた時、驚愕が不意に訪れた。


子どもと遊ぶのは楽しい。子どもが好きだ。

でも、どうやってしつけをすればいい?


良くも悪くも、僕たちは自分たちの受けてきた育てられ方しか知らない。

インナーチャイルドの傷を認識しはじめていた当時高校生の僕たちは、僕たちの育てられ方が人を傷つけるものだと体験的に知っている。

けれど、その育て方しか知らない。


矛盾が心を深く抉った。


やりたくないやり方しか知らない。

子育ての中で起こりうる、ありとあらゆる想定外(夜泣き、親の寝不足、子どもが寝ない、友だちを噛んだ、癇癪とパニック、イヤイヤ期……)を想像するほどに、シミュレーションの中の僕は嫌で嫌でたまらないはずの、親と同じ感情的な反応をしてしまう。相手が傷つくだろうことを知っていながら。

くり返したくないのに、繰り返してしまう。
これは呪いだ。

自分が放つ言葉と声音に親と同じものを感じとった時、僕たちはきっと自分が嫌いになってしまうだろう。
もうこれ以上嫌いになれないくらい、自分のことが好きではないのに。


だから、他のやり方を、接し方を、声がけを知りたいと渇望した。

機嫌と溜め息で支配しないやり方、ヒステリックじゃない伝え方、テーブルマナーの円満な教え方、日々の暮らし方。

知って、知って、知ることで引き出しを増やしたら、嫌なやり方に頼らず済むのではないか。

僕も子どもを傷つけずに、子どもを育てることができるのではないか。

始まりはそんな思いだった。

【現在】子どもを産まない、という選択肢

子育て本を読むことはいつの間にか僕の趣味となり、そろそろ5~6年が経とうとしている。

今僕たちは、子どもと暮らすという想像をやめた。望まなくなったのだ。


確かに知識は増えた。

過去の僕たちが必要としていた接され方はなんだったのかも分かりつつある。

食事のマナーをしつける本は、あまりにもフラッシュバックがひどすぎて読めなかった。


そうこうしているうちに、僕は気づいてしまったのだ。

僕がいくら知識をつけようとも、僕たちが「自分の子ども」を好きになることはできないだろう。

理科的な側面。生命が「子孫を残す」というのはつまり、先祖代々続いてきたDNAを後世に残すということである。

僕は忌まわしい親のDNAを持って生きている。こればかりはもうどうしようもない。

そしてそんな僕が参画する出産に際しては、その親の遺伝子が僕の子どもにも受け継がれてしまうのだ。

多くの親が言うように、子どもは親の真似をして大きくなるだろう。

僕の口調を真似るかもしれない。
無意識に、過去の僕と同じことを言うかもしれない。
親に似るところだってあるかもしれない……。

日常のふとした時にそれら「過去」と「写し身」が顔をのぞかせた時、僕には冷静でいられる自信がない。

感情を抑えられなくなり、罪なき子どもに自分の姿を勝手に重ね、とっさに身を守ろうとして子どもをはじきだしてしまうかもしれない、僕の「守るべきもの」の範囲から。

いつ、何度想像しても、そうなる。


僕にとって「子どもに育ててもらって親になる」「子どもに親にしてもらった感じ」という、よく語られる親側の言説は、子どもを犠牲にした親の自己満足にしか聞こえない。

子ども側の傷は「親の学びの代償」でしかなくて、失敗を重ねた親だけが達成感のある顔で子育てを語る。

もしかして僕も、同じようになってしまう。


ああ、無理なんだと悟った。

僕は自分の子どもと暮らす精神的余裕がない。子育てていちばん大事なものが欠けている。
知識で埋め合わせられるものには限界がある。僕はその限界までしか行けないのだ。

ワンオペか、協力者に恵まれているかの次元の話ではなく、僕には本当に、無理なのだ。「遺伝子が残っていく」という根源的な地点から。


いっそ「無理だ」と割り切ると、心のどこかがすっとした。
もう、強迫的に本を読まなくてもいいんだ。
無理に克服しようとしなくていいんだ。

子どもを産まなくてもいいという選択肢が市民権を得始めている現代に生きていて、良かったと思う。

僕は誰にも渡さないバトンを抱えて、ひとり静かに死ぬだろう。
でも孤独とは思わないと思う。むしろ、きっと安らかだ。


【未来】今生きている子どもたちを幸せにしたい

代わりに、この世界を生きる他の子どもたちに目が向いた。

特に、僕と似たような経験をした/している人たち。

彼らの心の傷を癒す手伝いや、親/これから親になる人たちへ知識や体験を伝えることはできないだろうか。

自分の子どもを幸せに育てる代わりに、他の子どもたちの幸せを手伝うことはできないだろうか。

そんな風に考えるようになった。

だから心理系の分野を専門的に学んで、子ども食堂とか里親とか、子どもを支援している場所や団体にいつか関わっていきたいと思っている。
そのために、子ども、人間、精神にまつわるいろいろなことをこれからも学び続けていきたい。

それが今の僕の原動力だ。


補足

補足しておきたいことが2つある。

ひとつめ。
文頭にも書いた通り、ここに書いた内容はあくまでも僕個人の考え方である。

他者に「こんな風に考えろ」と強要したり、今現在子育てに奮闘しておられる誰かを批判するために書いたものではない。

虐待やトラウマを抱えてなお子どもを産み、育てようと頑張っておられる人たち。
僕とは違う選択をした人たちを、僕は純粋に尊敬しているし、かっこいいと思う。

そしてそういう人たちがピンチになったらいつでも気軽に頼れるような福祉が、場所があれば辛さが減ることもあるかもしれないのに……と考え願っている。


ふたつめ。

生物学的な「出産」「子孫の誕生」を表す言い方が、日本語にはいくつかある。

「子どもを産む/産まれる」「子どもをつくる」「子どもを持つ」等々。

僕はそれら、子どもを自らの所有物とするようなニュアンスのある言葉があまり好きではない。

だから基本的に「子どもと暮らす」という表現を使用している。

本文中では文脈や伝えたいニュアンスによって「子どもを産む」とか「子どもを持つ」とか書いた部分もあるが、上のような考えを持った上であえて使っていることをことわっておきたい。


すべての親と子どもたちの幸せを願って。



直也


サムネイルの画像はPixabayからお借りしています。

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