10年前に届いていた、人格からの存在主張
中学生の時に書いた小説を読み直している。リメイクしたくて。
何度か手を入れている作品ではあるけれど……今読むとあまりにも拙くて、でも当時はちゃんと書けてると思っていたことを覚えていて。
恥ずかしいやら情けないなら……いろんな感情が湧いてくる。
当時は今とは違うことを考えて、今とは違うやりかたで書いていた。僕たちも変わったものだ。
文章こそ拙いしまとまりのない部分も多いけれど、「おや」と目に留まる部分もいくつかある。
思い出したこともある。
当時の僕たちは、今以上に感じるままに文章を綴っていた。
テストの時もそうだったけれどとにかく見直しができなくて、誤字脱字も流し読み程度ですぐに原稿を印刷し、友達に「読んで!」ってしていた。
恥ずかしい誤字や設定の矛盾って、なぜ印刷してからの方が目に付く
のか。
そんな拙い習作みたいなものを根気よく読んでくれていた友人から、こんな感想をもらったことがある。
「なんかここの文章、これまでのこのキャラクターと合わなくない? これだと二重人格っぽいよ」
指摘された文章を検討してみると…確かに、と思わされることが書いてある。
あまりにも感覚的に書いているものだから、僕たちはその文章を書いたことが記憶になかった。ほぼ自動筆記みたいな勢いだったのだ。
当時の僕たちは単純に「二重人格か。面白いから設定に入れて練りなおそう」と決め、キャラクターの内面を膨らませることに多重人格を利用した。
……だけだった。
今読み返すと、違う印象を抱かずにはいられない。
誰の記憶にもないまま感覚的に記されたその「キャラクターの多重人格を示唆するような描写」は、その通り人格からのメッセージだったのではないか?
「俺はここにいるぞ」と伝えに来たのではないのか。そんな風に思える。
当時指摘を受けた描写を思い返し (惜しいことに度重なる修正の末、その描写は校正の彼方に消えてしまった) 、そのキャラクターの個性に思いを馳せ、そのキャラクターの交代人格を見つめて。
僕たちの人格のひとりであるCūにとても似ている話し方をするなと気づいた。
具体的な時期は誰にも分からないけれど、Cūはたぶんかなり早い時期から存在していたのだと思う。
けれど彼が表に出て活動した回数は、驚くほど少ない。
怒りに任せた行動が得意で、歯止めがききづらくて、ついこのあいだまで「困った存在」と見なされていた彼を僕はどう扱って良いか分からなくて、ずっと奥の方に押し込めてしまっていたのだと思う。
だから文章の中で自己主張をするしかなかったのだろう。
実際、キャラクターの交代人格も己の存在を誇示するようなセリフをたくさん吐く。
主人格に己の存在に気づき、存在を認めてもらい、「ここにいてもいいよ」と言ってもらいたがっているように。
実際そうだったのだろう。これは単なる物語の中の出来事ではなくて、僕たちの内面で実際になされていた主張だったのだ。
そう気がついてCūに謝罪の気持ちを持つと同時に、僕たちが辛い時期の支えになってくれたこの作品が、いっそう大事に思えるようになった。
文責:直也
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