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「多重人格」を考える【haruさん著『ぼくが13人の人生を生きるには身体がたりない。』】

先日、haruさん著「ぼくが13人の人生を生きるには身体がたりない。」を読みました。

haruさんのことを最初に知ったのはTwitter上。
レンタルさんのツイートを辿ったことがきっかけでした。

私の身近、顔を合わせる人の範囲に、(知る限りでは)解離性同一性障害の人はいません。

こういう言い方が適切かどうかは分からないけれど……。

差別するでもなく、憐れむでもなく、自分と違う世界観を持っている人として、「興味深い面白さ」を感じます。
(英単語の「interesting」とか「wonderful」とかのニュアンス)

ここからは、これまで私が「多重人格」という概念や人に触れた媒体を追いながら、考察の道筋を辿っていけたらと思います。

「多重人格」に対するイメージ

実は、私が最初に「多重人格者」という人の存在を知ったきっかけはアニメでした。

幼稚園の頃から大好きなアニメに「戦国御伽草子 犬夜叉」という作品があります。

この中に、「睡骨」という男性が登場するのです。

彼は人好きのする医者である一方、残忍な殺し屋の性格も持ち合わせています。

フィクションの中で良く描かれる、「人格が交代すると豹変するタイプの多重人格者」です。

当時は作中の人間関係もよく分かっていなかったので、「たじゅうじんかく」という言葉も意味を理解しきれてはいなかったかもしれません。

けれど浅い理解として、「そういう人がいるんだな」と感じたことは事実。

そして、たとえ睡骨が残忍な性質を持っているとしても、「怖いキャラクターやな」と感じたことはなかったような気がしています。

なぜなら残忍であると同時に、優しい人格も同居しているわけですから。

どちらか一方が表に出ているだけであって、もう片方が死んだわけではない。

人間、笑う時もあればブチ切れる時もあるので、それと同じようなものなのかな。本質は善人かもしれないな、など考えていたのです。

フィクション作品2 「プラチナデータ」

高校生の時、東野圭吾さんの作品「プラチナデータ」を読みました。

嵐の二宮君主演で映画化もしましたが、あえて原作を選んだのは、同時に文章の勉強にもなると考えたからです。

この作品の主人公、神楽龍平も多重人格者でした。

確かに、彼は交代人格「リュウ」の出現によって荒っぽくなったりします。

ところが、私がこの作品全体を通して感じたのは、「優しさ」でした。

なぜなら、リュウは睡骨と違って残忍な殺し屋ではなかったからです。

彼がやりたかったのは、絵を描くことでした。

なぜ龍平からリュウが生まれたのか。
そして、最後は統合したのか。

リュウは、龍平が記憶の中にしまいこんだことを覚えておくために分化したのではないでしょうか。

古い記憶の中に込められたメッセージのようなもの、龍平が忘れてはいけない温かさのようなものを、リュウは留めて思い出させようとしていたと感じました。

つまり、多重人格だからといって、必ず豹変して犯罪を働くわけではない――ということを知ったのです。

ようやく実話へ 「24人のビリー・ミリガン」

この本は、私にとって印象深いものの1つとなりました。

驚くべきは、この驚異的な人物が実在するということです。

1人の中に24人もの人格が存在したら、どれだけ忙しいんだろう……。

というよりも、どうやって人生を過ごすんだろう?

未知の世界を目にしたくて、迷わずレジへ持っていきました。

ビリーは犯罪を起こしたために逮捕され、その折に多重人格であることが判明しています。

自分が解離性同一性障害であると分かるまでの半生は、混乱の連続だったんだろうと想像できます。

けれど同時に私が感じたのは、不思議な既視感というか、共感のようなものでした。

本文中には、ビリーの交代人格たちがたくさん登場します。

しかし、彼ら全員が犯罪者的ではありません。

むしろ彼らは、ビリーを守るため、ビリーを活かすために、手探りで生き抜いていたのです。

大勢が強力して、主人格を支えようとする。

この構図は、肉体を持って生きる人間と、それを支える守護霊以下「上の人」たちのようだと感じました。

ただし、交代人格たちの方がより三次元に近く、ハイヤーセルフのように見通しが良いわけではないらしい。

ビリーの場合は、「教師」と呼ばれる人格がすべてを理解しているようなので、ハイヤーセルフに近い位置にいるのではないかと思います。

同じ時代に生きる人

そんな前知識――というか、色々な印象を得た後に、「メンタルなんにんもいる人」ことharuさんの著書に出会ったわけです。

ビリーは実在している人でありながら、他国だし、年代も離れています。
そのせいで、「実在はしているけれど、どこか遠い人」という印象でした。

ところがharuさんは、同じ時代に生きていて、そして、本を読んで初めて知ったのですが、同年代のようです。

ぐっと身近に感じられるようになりました。

ここからは、「ぼくが13人の人生を生きるには身体がたりない。」を読んで感じたことを書いていきたいと思います。

「表に出る場所」がある

文中に、洋祐くんが「頭の中」を図解してくれているところがあります。

そこで印象的だったのが「コックピット」の存在です。

円卓の一角に特別な席があって、そこに座った人が「haruを操縦できる」とのこと。

「24人のビリー・ミリガン」の中にも、似たような「スポット」という場所が登場したので、共通点を見つけてなるほどと思いました。

ちなみにビリーの「スポット」は、周りが真っ暗な中央にスポットライトが当たっている部分があり、そこが外界との接点となっているようでした。

脳内に特別な一角があって、そこに立った者が表に出ることができる。
ただしその場所がどのように知覚されているかは人それぞれである――。

そんな感じなのかもしれません。

みんなを統括する「リーダー的」な人がいる

ビリーとharuさんに共通しているな、と感じたことがもう1つあります。

それは「リーダー的人格」の存在。

haruさんの場合は洋祐くん、ビリーの場合は「アーサー」という青年です。

高圧的なわけではないけれど、彼らがリーダー的な役割を担って、他の人格たちを見守っている、という表現がされていました。

時代の理解力の差

解離性同一性障害については、まだまだ専門家の間でも意見が分かれているそうです。

その存在を認めている医師と、事実に懐疑的な人もいるとのこと。

ビリーの話と、haruさんの本を読んで痛切に感じたのが、世間の反応の違いです。

ビリーは犯罪を起こしてしまったこと、解離性同一性障害の認知が広まっていなかったことも重なり、かなりひどい環境に置かれた時期があったようです。

しかし時代が進み、haruさんはネットで解離性同一性障害の情報収集をしたり、ビリーに比べるとすぐに、理解のある先生に出会っている印象。

時代が違うと、こうも周りの反応が変化するのか……と、嬉しいような、ちょっと寂しいような気にさせられました。(寂しいと思ったのは、ビリーが不遇だと思っているからです)

もちろん現代にも、まだ懐疑的な立場を取る人はいるでしょう。

ですが、多数の人が「未知の症状」として接するより、「前例もあるし、薬も分かっている」という態度で接した方が、きっと当人たちのセルフイメージにも良い影響があるのではないかと思うのです。

人間が万能であることを示している?

本の中で交代人格たちを知って感じるのが、本来、人間は万能なのではないかということです。

ビリーの交代人格たちは、人物画を描き、風景画を描き、縄抜けをし、すごい怪力を発揮し、いくつもの言葉や訛りで話します。

haruさんも、文系も理系もできて、機械を分解して、プログラミングをして、アプリを作って、子どもと触れ合って……。ありとあらゆることができます。

それぞれの得意分野は交代人格たちのものですが、誰から「分化」したかと言えば、ビリーやharuさんという一人の人間。

これは人間の中に眠る多様な可能性を示しているのでは……と感じました。

つまり、やろうと思えばなんでもできるのではないか、ということです。

では、なぜ「できない」と思ってしまうのか。

生まれた瞬間から始まる、現実世界への刷り込みが一因ではないかと思います。

子どもが受ける影響のすべてを、親が完璧にコントロールすることはできません。

どこからか「赤は女の子の色」とか「○歳にもなってプリキュアが好きなのはおかしい」とか、偏見にも似た印象を持ち帰ってくることがあります。

同時に、「文系だから算数が苦手」とか「絵が上手く描けない」とか……。

練習すれば上手くできるようになるかもしれないことを、「無理だ」と思いこんでしまうきっかけも与えているかもしれないのです。

もちろん、人間には得意なことと不得意なことがあります。

これは私の持論ですが、何が得意で何が苦手か。
これも生まれてくる前に決めているのではないかと思っています。

例えば、私は前世で歌手をやっていたことがありますが、
今回も歌が好きで、ピアノがバリバリ弾けていたら、文章を書こうとは思っていなかったでしょう。

「なんとかピアノが弾ける」とか「楽譜を読むのが苦手」だからこそ、今回選んできた使命に集中できるのではないか。

そんな風に感じています。

けれど、それは今回の事情で、本来の人間に不可能はない。

それを体現しているのかもしれないな……と思っています。

やっぱり、「上の人」みたい

haruさんの本を読んで、改めて感じたことがあります。

交代人格たちは、やっぱり上の人みたいだということです。

文中に、私が大好きなフレーズがあります。結衣ちゃんの言葉です。

わたしたちは常に裏方なんです。
(中略)
主役はあくまでharuくんで、わたしたちは彼をサポートしているだけだから。
(中略)
それなのに誰も乗っ取ろうとしないのは、haruくんがいままで生きてきたおかげでわたしたちも存在していられるし、この先もharuくんが生き続けている限りわたしたちも存在し続けられるということをみんなわかっているから。
(中略)
なにをしてもしなくてもいいから、生きていてくれさえすればいい。

これは個人的な感想ですが、
「上の人たちも、こういう風に思って生きている人をサポートしてくれているのかな」と思いました。

この言葉の強いところは、結衣ちゃんも当事者の一人だからこそ、言葉に重みがあるということ。

「無償の愛」という言葉があります。

親が子供に「とにかく生きていてくれればいいの」と言うこともあります。

けれど、つらい経験をしてきた人にとって、それらはどこか薄いのではないか……と思うのです。

なぜなら、温かい言葉をかけてくれる人は、自分の苦しい経験を知らないから。

いくら共感することができても、繰り返し話を聞いてくれても。
相手が完全に自分の身になって、自分が感じた辛さを疑似体験することは不可能です。

これは肉体を持った人間の限界かもしれません。

けれど、交代人格や上の人たちは違います。

いつでも当人のそばにいて、当人のことを見てきました。

辛い思いをしてきたことも、葛藤した心の中も知っています。

だからこそ言葉に重みと実感が備わるし、心の奥まで届くものになる。

この言葉を読んだ時、ある人の個人セッションを受けた時のことを思い出しました。

聖母さんやアレムルアがその人の口を借りて、いろんなメッセージをくれた時があります。

その時の聖母さんの言葉も、結衣ちゃんの言葉と同じように心に浸みてきました。

それは聖母さんがずっとそばにいてくれて、私を見守ってくれていたからでしょう。

「辛かったこと」と言われた時、いつの、どんな経験を指して「辛い」と表現しているのか、そして同じ心の痛みを味わってくれていたことが分かりました。

交代人格たちの存在も、辛さを共感してくれる人の一部なのかもしれません。

「普通」ってなんだろう?

最近、ジェンダーとか年齢とか「障がい」と呼ばれるもののこととかについて、よく考えます。

その中で、「普通」ってなんだろう? とよく思うのです。

「障がい」という言葉は、このように定義されています。

身体障害・知的障害・精神障害(発達障害を含む)その他の心身の機能の障害があり、障害および社会との関わり方によって生活や仕事に制限を受けている人

この「制限」や「普通」ということについて、すごくもやもやした気分になるのです。

社会で「普通」とされる概念は、常に変わり続けてきました。

町中に処刑された人の遺骸がつるされていた時代。
怪しい人物を「魔女」として処刑して良かった時代。
「○○人」を差別して良いとされていた時代。
男性は外で働き、女性は家庭にいるべきだとされた時代。
逆に、女性こそが偉大だとされた時代。

いろいろな時代を、現在進行形で通り抜けているわけです。

過去の「普通」は、現在の「普通じゃない」こと。

じゃあ、現在「障がい者」と呼ばれている人たちが「制限を受ける」こと、「自分はみんなと違う」と感じてしまう出来事って、何だろう。

多数の人が「普通」だと思っている日常の一コマは、本当に「普通」なのだろうか?

こう考えていくと、そもそも何かを「普通」と捉えること自体、的外れではないかと思えてきます。

もしも社会の形が、仕組みが、現在のものと違う形になっていたら。

「これが普通だ」「お前は変だ」と誰かを疎外している人たちの方が、「普通じゃない」と言われるようになるかもしれません。

それは争いの連鎖ではなくて、もっと広い価値観を作るために行われるべきです。

具体的に言えば、「それ、違うんじゃない?」と柔らかく指摘すること。

人との接し方を考えること。

本質的には、自分以外の人はみんな「他人」です。

多重人格者だからって犯罪を起こすわけではないし、いわゆる「健常者」だからって優しいわけでもない。

思考や認識の枠にとらわれずに、もっと視野の広い「普通」を作れたらいいなと思っています。


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