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素敵なメディアミックスとは、メディアの長所を活かすこと

好きな作品がメディアミックスするとの報はめちゃくちゃうれしい。

メディアミックスから作品を知って、原作に触れるのもまたとても楽しい。

小説がコミック化する、アニメになる、ドラマや映画になる。
マンガがアニメ化する、映画化する。
映画のノベライズが出る、特製カバーがかけられた本が店頭に並ぶ。
最近はオーディオドラマとかもあるよね。

そうやって「ある形態」で世に出た作品が、「他の形態」もとっていくことにはとても情熱をかき立てられる。メディアミックスしたいというのは僕の夢のひとつだ。

一方でなんでもかんでもメディアミックスすれば良いというわけではなく、「どのように」やるかがとても大切だなとは常々感じること。

原作へのリスペクトのある・なしに関わらず、「あれ、ここ原作と違うな」とか「違うけど、いいな」とか感じる部分が発生することはある。
あれってどうして起きるのだろう。

いろいろ観たり考えたりしているうちに、僕は「媒体ごとの得意分野」があることに気づいた。これは僕が見つけたそれぞれの得意分野を考える記事だ。

映画・アニメ→うごきのあるシーン。迫力。音

動画の強みはなんといっても「動きと音」があることだと思う。

アニメ化した「鬼滅の刃」を章ごとに追いかけるたび、マンガからさらに拡大され迫力を増した戦闘シーンに手に汗握る。ひとえに「動きと音」のなせるわざだろう。

もちろんマンガや小説でもバトルものはある。けれども静止画・文章で臨場感を出すのは映像でそのまま見せるより工夫が必要なところもあると思うし、ある程度読者の想像力に頼る必要も出てくる。読んだ人全員が同じ映像を想像する、というのは、マンガや小説では難しいものだ。

その点、映像では動きのあるシーンを動きのあるものとして表現できるので臨場感を生みやすいのだと思う。めちゃくちゃ強い。

マンガ→視覚的補助。キャラの姿。

マンガはキャラクターに姿を、世界に風景を与えることができる。

小説は装丁によるが、必ずしも登場人物たち全員の外見が詳しく描写されているわけではない。
仮に表紙やキャラ紹介でキャラクターの外見を理解していたとしても、シーンごとに「どんな顔で話しているのか」を明確に規定することは、文章だけでは難しい。マンガではそれができる。

物語の流れを視覚的に見せて読者に伝わりやすくすることができるし、コマ割りや文字の大小などで、どこを強調したいのかも分かりやすい。

視覚におおいに頼りながら生きている人類は、視覚情報が増えるほど思考の負担を減らしながら娯楽を楽しめる傾向にあるのだと思う。

小説→心情描写

では小説は何が強いのか。

圧倒的に心情描写だと、僕は思う。

以前「探偵はBARにいる」という小説を読んだ。

この中に、ものすごく心に刺さったダイアログがあった。
大泉洋さん主演で映画も制作されていることは知っていたので、原作を読み終えてからすぐ映画に飛びついた。あのダイアログを、大泉さんの声で再体験したかった。

が、そのダイアログは映画に登場しなかった。

代わりに映画では戦闘がより長く、頻繁に、いろんなところで展開されており、動きのある映画につくり上げられていた。

残念に思った僕だったが、その時に気づいたのだ。

小説と映画には別の得意分野があるのだと。もちろんマンガにも。

小説は読者の想像力にゆだねる部分が大きいぶん、より深く心に染み入る効果があるような気がする。
そして文字以外の視覚情報が少ない小説という形態なら、目に見えないもの――人の心の動き――も描き出すことができる。長々と、丁寧にやられても割と飽きない。

ところが、これをマンガや映画でそのまま再現するのは大変だ。

両者は視覚への依存度が、小説よりも高い形態だ。主人公が物思いに沈んでいようが、目には見えない心の中で考えていることを表現したかろうが、画面(紙面)には何かを見せていなければいけない。

心情描写が続いているからといって、ずっと画面を黒塗りしているわけにはいかないのである。何かを見せていなければならない。

心情描写的なモノローグが続いているあいだ、ずっと流し続ける映像を展開するのはとても難しいだろう。ものによっては緩急のバランスが崩れかねない作品だってあるはずだ。


それぞれに得意な表現の部分を持っていて、だからこそメディアミックスの時にアレンジされたり、足されたり、なくなったり、解釈を深めて迫力を増したりするのだと思う。

このことに気づいてから、「原作と違うな」と感じる部分も楽しめることが増えてきた。
逆に「どうしてこういう風に変えたんだろう?」と考えながら触れるという楽しさを発見できたからだ。

その「どうして」に明確な答えが見つかることもあれば、推測で終わるだけのこともあるけれど。
「何か意図があったに違いない」という仮説を立てて見つめると、騙されやすい脳は何かしら理由っぽいものを見つけてきてくれるものなのだ。おもしろいことに。

映画づくりを学ぶ人が「イマイチだと思う映画を研究するといい」と言われるのと似ているかもしれない。自分の頭を働かせて触れる訓練。

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