性別を規定する言葉が嫌いだ。
どうも。直也です。
「みんなと違う」「変わっている」と言われることを主は喜ぶ。
違いに目が留まるというのは、個性が立っていることだと考えているからだ。
一方で僕たちは、性別を規定するような言葉を嫌悪している。
男っぽい/女っぽい。
男勝り。
女々しい……etc.
同時に男性がお菓子作りをしているのなどを見る時にふと「男性なのに、繊細なものを作ってすごいな」と思う自分たちを嫌悪する。
誰かをそういう風に見たくない。
僕たちも「男」か「女」の型枠にはめて見られなくないから。
自分がされて嫌なことは、人にしない。
そういう人でありたい。
僕たちは、手始めに言葉遣いから改めることにした。
「男っぽい」「女っぽい」等の言葉を使わないようにしているのだ。
意識の内で「男性なのに/女性なのに」が出てきたら、すぐに打ち消すようにしている。
これは「正しくない」からしているのではなく、僕自身が「そういう人でありたくない」から、している。
「男勝り」と言いたいところは単純に「活発」と言い換え、家事をやる男性に対して「男性なのにすごい」と感じたら、「家事は女性だけの仕事じゃない」と認識を改める。
人が言葉を作り物事を規定するのと同時に、言葉も人を規定すると思う。
「男勝り」という言葉が、「男、かくあるべし」を規定する。
「男性なのに、家事をしてすごい」が、「家事は本来、女性がやるべきもの」を規定する。
そういうのに縛られたくない。だから脱出する方法として、言葉選びに気をつけ、気づくたびに認識を改める試みを続けているのだ。
活発な女性がいればおとなしい女性もいるように。活発な男性も物静かな男性もいる。
本来、人間の生き方、あり方を描写するのに「男女」の文字は必要じゃないのではないだろうか。
だって僕は大切な人たちが、「男だから」「女だから」好きなのではない。
「その人だから」好きなのだから。
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