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僕たちがフェミニンになりきれないのは

「女の子らしいもの」が好きです。

フリルのたっぷりついた服とか、猫脚の真っ白な家具とか、かわいい下着とか、パッケージもかわいい化粧品とか。

同時に、女の子らしくなりすぎることに警戒心を持っています。


私はパーツたちの中でも数少ない女の子で、ひらっとするスカートとか、かわいいインテリアとか、丁寧なネイルとかします。かわいいの好き。

でも私が表でそういうことを楽しんでいる時は、いつも後ろの方に「イライラさん」がいるんです。

「イライラさん」がパーツなのかどうかは分からないけど、彼はとにかく女の子らしいことが嫌い。
フェミニンに全振りする時の私とは常に紙一重で、「女の子らしくしやがって!」って怒ってきます。

きっと主さんの中で、女の子らしくなりすぎたくない部分があるんだろうな。
みんなが楽しく暮らせるのが一番だから、ネイルは2日くらいで取るし、化粧はしてないし、フリルのついた服は持ってません。眺めて楽しむだけにしています。


思い当たる出来事があるとすれば、あれは確か主さんが小学生の時。

体調とか体力とかの話になった時に、主さんのお父さんが「でも、将来子どもを産むかもしれないし」と言ったんです。

それがすごく不快でした。

まるで女性は子どもを産むから価値があるんだ、女の子を大切に育てるのは将来子どもを産むからだっていうニュアンスが含まれているみたいで。

もしかしたらお父さんにはそういう意図はなくて、単に「体を大切にした方がいい」という教訓のつもりだったのかも。

けれど私たちには、それが「女性であること」と「子どもを産むこと」が決して切れないイコールで繋がれた、本人の意志なくやらなければならないことのように聞こえたのです。

当時お父さんの言葉に含まれていた「かも」は「子どもを産まない選択肢もある」ではなくて、
「一応含みを持たせておくけど、やるべきこと(子どもを産むこと)は察してね、分かるでしょ」みたいに思えました。

それで「嗚呼、私自身に価値があるわけじゃないんだな」と直観しました。

そこから直結して「もし私が男の子だったら、こんなことは言われなかったのかな」とは思いませんでしたけど、女の子であること、女性としての「価値」の存在をうっすら感じて、なんだか怖くなったことを覚えています。

当時はうっすらした怖さを表現する語彙力も、表明して良いんだという認識もなかったけれど、今当時を振り返って思うと上のような感じ。


どうして女の子でいると、「結婚」と「出産」がセットでついてくるんだろう。
男の人がいないと子どもは生まれないのに、どうして男の人に「体を大切にしなさい」って言う時は「将来子どもを作るかもしれないし」って言わないの?

それは全部女の人の仕事なの?


嫌だな、と思ったんだろうな。

だから「女の子らしい」ことは好きだけど、自分があまり「そちら」へ傾かないようにしているのかもしれません。

できれば中性的に、「どちらでもなくて、どちらでもある」で生きたいし、それが男子率の高い私たちにとっては居心地が良い状態な気がする。


ガーリーなお部屋に住んでいる人、フェミニンでかわいらしい人が好きなのは、「自分が全力でやりきれないこと」を実行して生きているから……という憧れの上乗せでもあるのかもしれません。

世界からかわいらしいものがなくなれば、とは思いません。かわいいものは大好きです。

けれど私が「そちら側」を全力で楽しむことは、心に過去の「言葉のトゲ」が残っている限りできそうにないから。

だから出産や子育てについてこんな風に思ったりするようにもなったのかもね。

せめて祈るのは、そういう価値観が薄れていくこと。

生物学的な男女を問わずその人自身の体が大切だし、何を好きで何が嫌いでも、誰にも何も言われなくなる世界になること。


祈ります、願います。



亜麻、直也

サムネイルの画像はPixabayからお借りしています。

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