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和解を「あきらめ」て先へ進むことにした。

「いつか分かり合える」という幻想

心象風景は特別な意味を持っていると思う。

子どもの頃から今に至るまで、長い時間もち続けてきたイメージ。概念。
それは精神構造の一部に組み込まれていて、無意識のうちに考え方のクセや願いの土台になっているものではないだろうか。


僕は「和解」の心象風景を持っている。

さまざまな誤解や苦難やトラブルを乗り越えて、家族や友達は物語の最後に和解することができるのだ。

アリエルとトリトンは和解する。
ムーランは家族から、ひいては国(皇帝)から受け入れられる。
キキは念願だった「海の見える町」に居場所を見つける。

例を挙げれば枚挙にいとまがない。


そういうものに触れて育ってきた僕だから、僕にもいつか家族との和解が訪れるのだろうかと思ってきた。

考えを共有してみたり、本を薦めてみたり、口論になったりいろいろした。

僕が願ったような和解は、未だ訪れていない。

訪れない理由が分かった。

あの人たちは僕が感じてきた辛さに興味がないし、当時僕が感じていた辛さは伝わっていなかったのだ。

あの時起きていたことを客観視した

辛かった出来事の記憶ばかり鮮明でよく心がつらくなる。

どんなことが起こったか。その時、何を考えていたか。どう感じていたか。

当時は上手く言語化できなかったことを、今なら的確に描写し説明することができる。何度か試みようとした。
当時僕が望んだようには、受け取ってもらえなかった、と感じる。

過去と現在の距離、親と僕それぞれがこの問題に向ける関心の温度差という距離。それらが埋められない間をつくってしまう。
他人の心は動かせない。この距離を埋められない。決定的にそう感じた。

一体なぜなのだろう。

永らく「無関心」以外の理由が分からなかったのだが、つい最近まったく別の理由に思い至った。

もしかして、いやきっとそうだった。


僕が感じていたつらさや「助けて」のサインは、目に見えづらい形でしか発信されていなかったのではないか。


解離は「我慢」によって発生する、と僕は感じている。

ストレスを外に発散することができれば、人格がバラけて抱え込む必要は生じない。

つまり、僕は我慢していたのではないか。

そんな視点で当時の僕たちを客観視した時、上の結論にたどり着いたのだ。


僕たちはよく泣く子どもだった。

泣く割に自分の気持ちや状態を言語で説明するのは苦手であり、さらにはある出来事があってから「大人には理解されない」という印象が作られてしまっていた。
つまり「言っても無駄だ」と感じ、聞かれても本当のことを答えない/表層だけ伝えて済ませてしまう傾向にあったのだ。

そして抱えたストレスは癇癪でも自傷でもパニックでもない方法――内部に抱えて反すうする――ことによって折り合いをつけようとしていた。

屈折した「助けて」のサインは、表層の行為だけ注意され掘り下げられることはなかった。


当時の僕を客観的に見ると「よくイライラして泣く子ども」「時々問題発言をするけどすぐやめる子」でしかない。

つまり、伝わりづらい方法でしか表現ができていなかったのだ。

「どうせ分かってもらえない」「僕の発言は軽視される」ところから始まった小出しのサインは、そもそも量が絞られているがゆえに伝わりづらく、だからますます小出しにする……という悪循環。

拾われなかった感情や考えはすべてしまいこんでしまい、外に拾われない代わりに自分たちで折り合いをつけようと、パーツが増えて分担されていく。

その間も外側に見える僕は比較的品行方正に、成績も良い方の子どもとして生きていた。

傍から見たら「あんなに良い子だったのに、どうして?」となるのではないだろうか。

加えて親からは「あなたの子育てで何も間違ったことはしていない」との言葉をぶつけられている。
親は僕の子育てをもう終わったものと思っており、傷や(あったかもしれない)失敗を振り返る気はないようなのだ。

和解の道はここに遮断されている。


上の言葉を告げられたのは数年前のことで、それでも和解の心象風景を捨てられずにここまできた。

けれども「当時の僕は、傍から見たらさほど困っていないように見えたのではないか?」という結論に達し、心象風景を捨てなければならないことが決定的になった。
覚悟が決まった、と言い換えてもいい。

分かっているけれど、あきらめきれなかったこと。


現実は物語のようにはいかない。

待っているだけでは王子様は来ないし、必ずやってくる和解なんてない。
インターネットによって気軽な関係性が作れるようになった今、広く浅い友達は和解の前に立ち去ることだって大いにありうる。そうすることが簡単になった。

雨が降ったら、地面はぬかるみっぱなしであることも多いのだ。

だから、僕はあきらめる。

和解を、理解を、あきらめる。
ぬかるんだままでいい。もうそこを歩こうとは思わないから。

「あきらめる」言葉の意味

「あきらめる」という言葉は、今では「断念する」という意味で使われることが多い。
そこに含まれているニュアンスは「挫折」だと思う。

しかし一説によれば、「あきらめる」という言葉はもともと「明らめる」――明らかにするという意味を持っていた。

僕はきっと理解されない。ここまで頑張ってきて、考えてきて、それが明らかになったと思う。
だから理解と和解をあきらめて、そこに心のエネルギーをかけるのをやめて。
ひとり自分が生きやすくなる方法の模索により真剣に向き合うことにしたのだ。

これは挫折ではない、ポジティブな心境の変化だと思っている。


直也


サムネイルの画像はPixabayからお借りしています。

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