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ともに暮らす手触り

どうも。「無気力」です。

子どもの頃の、おもちゃの手触りを覚えている。


どの人形のものかも覚えていない、ドールハウスの屋根のなめらかさ。

シルバニアの旧「たのしいようちえん」の階段の2段目。

お気に入りだったままごとセットの鍋に、蓋をかぶせる鬨の感触。カパというかすかな音。


僕たちに豊かな感覚を与えてくれたそれらはもうひとつとして手元にはないけれど、あの手触りや音は五感に刻まれてでもいるのか、ひどく心地良かったことだけ鮮明に思い出すことができる。

思えば僕たちは、その頃から皮膚感覚や心地良い音に敏感だった。

首のうしろや左脇につく服のタグが気になってイライラし、絶えずちくちくと肌を刺すラメ入りのハイネックを長く着ることができなかった。

箱に収められ陳列される無数のおもちゃに心惹かれた動機の中には、
「これを実際に手に持ったら、どういう感触なんだろう」
「どのくらいの重さなんだろう」
「触れ合わせるとどんな音がするのかな」
という好奇心が少なからず含まれていた。

当時はそんなニーズを的確に伝える語彙も持ち合わせていなければ、服の素材に影響を受ける自分は他と比べてひ弱で恥ずかしいとさえ思っていたので、これを誰かに上手く伝えることはできなかったのだけれど。


こうして振り返ると、僕たちが好む手触りのものは当時から変わっていない。

成長し、ある程度身の周りのものを好きに揃えられるようになった僕たちは、この過敏な感覚を否定し矯正しようとすることをやめ、この感覚と折り合いをつけて生きる方がはるかに精神衛生に良いこと、またそれが可能であることを知った。

ざらざらの服は避けること。

新しいお皿は大きさ、見た目、手触り、そのあと予算で決めること。

本のページをめくる、紙のかすかな摩擦を楽しむこと。


苦手な「感覚」を克服しようとせず、折り合いをつけて生きる道は時に「諦め」や「逃げ」のように見えるかもしれない。

少なくとも自己批判の得意なパーツは、僕に向かってそう言うだろう。

完璧を目指さなければならない。「折り合いをつける」なんて「逃げる」を上品に言い換えただけの言葉だろう……などと。

僕たちは僕たちに対して、ときおり辛辣になってしまうから。


それでも、僕はこの折り合いに満足している。

苦手な感覚を鈍麻にして周りに順応しようとするよりも、僕たちにとって心地良い服を着て、心地良い肌触りのものに触れて暮らす方が、ずっと幸せだと感じるからだ。

子どもの頃は、それを上手くやることができなかった。でも今は違う。

僕たちは僕たちの人生を共に暮らしていく「持ちモノ」を自らの意志で選び、手元に置いたり手放したりすることができる。

どんなモノと共に生きていきたいかを、自分で決める自由と手段を手に入れたのだ。


人生は意外と短いかもしれないということを、最近よく考える。

何気ない1日の積み重ねがあっという間に1年になって、10年になって、20年になる。

憧れの家具や暮らし方に「憧れて」いるうちに、「いつか、いつか」と思っているうちに、漫然と数十年を過ごしてしまえる人間の鈍感さに気がついてふと恐ろしい。

だから僕は今まで以上に敏感に、僕たちと共に暮らすモノたちに心を配ろうと決めた。

憧れを憧れのままで終わらせたくない。

実現したいと思って行動を始めなければ、いつまでも憧れは遠くにあるままだから。


まずはお気に入りのやわらかい毛布にくるまって、今日の疲れを取ろう。

朝日とともに目覚めて気持ちよく伸びをしたら、憧れに近づくための暮らしを追い求めて生きていくのだ。

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