後編【短編小説】〆切がやってくる
少女は完璧に俺を先回りしていた。いよいよ〆切の妖精じみてくる。
夕方になって俺が空腹を覚えると、振り返った先のちゃぶ台に夕飯が並んでいる。気づけば風呂が沸かされ、布団が敷かれていた。とはいえ、布団は少女に譲ったけれど。布団は1組しかなく、子どもは床で、大人はぬくぬくと布団で寝るなんてとてもできない。
少女がすこやかな寝息を立て始めても、俺はランプの下で頑張っていた。というより、机に縛り付けられている気がした。
トイレに立つのさえ緊張する。今にも熟睡していたはずの少女が起き上がり「何するんですか? 原稿進んでますか?」と尋ねてくるのではないか。だから、1ミリも進まないペン先を睨みつけているしかない。形だけでも「書く」しか。
強制されるように机に向かい続ける。
何も生み出さないペン先。空気に触れてインクが乾くだろうか。けれどもキャップを閉じる音で、少女が起きてしまったら。
一向に埋まらない原稿用紙。淡いクリーム色のつるりとした質感は、ランプの下でも日差しの下でも目に優しい。この上等な紙を求めた時、俺はあらゆる物語を書き記そうと意気込んでいたはずなのに。
辛い。今は書くことが何より辛い。
どこにも逃げられない。俺が気を散らす為においたあらゆる用事は、すべて彼女が片付けてしまう。残された俺は向き合うしかない――書くことに。俺の内面に。俺自身に。
書くとはこれほど辛いことだったろうか。苦しいことだったろうか。俺はなぜ苦しんでいる。かつての喜びや希望、夢が叶ったという実感は、いつから消えてしまったのだ……。
「もう沢山だ!」
まるで別人の、腹の底から湧きあがった怒声が薄い窓ガラスを震わせた。慌てた足音とともに、夕食の匂いをまとわりつかせた少女が駆け寄ってくる。
外は夕日の鬱(う)金(こん)に染まっている。俺はほとんど机にかじりついたまま2日を過ごし、〆切は明朝に迫っていた。
原稿は遅々として進まない。
「信行さん、どうしたんですか」
「五月蠅い!」
苛立ちに任せ、足音荒く立ち上がる。少女が気圧されたように一歩下がった。急にしおらしくして見せる、その動作にもまた腹が立つ。
「何故お前は俺に書かせるんだ。俺は何も書けないと言っているのに。自分の部屋に幽閉されるのも、追い詰められるのも我慢できない! ここは俺の部屋だ、誰にも指図される筋なんてない!」
「ひっ……」
少女の目に怯えの色が走る。畳の凹凸に足をとられ倒れた。
細くて頼りない子どもの姿が、ふと閉じこめた記憶の戸を叩く。
俺は腕を振り上げ、今にもこの子どもに拳を打ち下ろそうとする己を自覚した。これは。
あいつと同じじゃないか。
拒否感が怒りに先んじて拳を下ろさせる。逃げるように部屋を飛び出した。
下駄をつっかけた足は意図せず慣れた道を行き、気づけば土手に出ている。
幾度も気晴らしに眺めに来た、悠々とした川の流れ。
気晴らしと言えば聞こえは良いが、実際はやはり逃げだったと思う。書けないことからの、白い原稿用紙からの。
俺自身からの。
水にすべてを流してしまうことを夢想するが、決して実行はしない。ただ「流す」という可能性それ自体が俺の心を平静にしてくれた。実行の是非は重要ではなかった。
土手を少年たちが駆けていく。
「あ、太宰だ。久しぶりに見たな」
声量を気遣わない少年の声に、もう一人が同意する。そして声は遠ざかる。俺は近所の小学生たちから「太宰」と呼ばれているらしい。和服姿がかの文豪を連想させるのだろうか。
俺は文豪になどなれない。そもそも目指していない。俺が小説家になりたかったのは。
のは。
思考が止まる。川のせせらぎ。風。鴉の声。目に入り、耳に聞こえ、身に触れるすべてのものが、一時なんの先入観もなく、そのままの姿で俺を取り巻く。そして俺もまた、この世界の一部。
次に俺は遠ざかって少年の声を、振り上げた拳を思い返す。記憶の中から立ち上がってきたもの。
俺を打ちのめす巨大な影。隠れることは無駄で、抗うことはさらなる罰を招く罠だった。
俺は目立ってはいけなかった。
同時に逃げ場所が必要だった。俺にとって、それは書くこと。痛みと困難に立ち向かう勇者の姿は、俺の理想の、実在しない俺。
クラスメイトたちが理想の俺を認めてくれた。
面白い話だと言い、続きを書いてと願ってくれた。俺がすりきれた服しか着ないことも、打ち身のせいでプールを休んだことも、関係ない。理想の俺が俺の居場所を作ってくれた。
書くこと。それは俺と世界をつなぐためにあったのだ。
書いていれば、みんなとつながっていられる。書くことが、俺の内面を平和にする。だから楽しかった。
思考の霧が晴れていく。世界とつながり続けるために、この〆切を逃してはならないと思った。
再び机の前に座った。
ペン先は踊るように動いた。何を、どう書けば良いか分かる。文字が集まって言葉になり、あるべきところへ収まっていく。
夕食はとうに冷めきった。俺は時間の感覚を失っていた。
「信行さん」
手を止めた隙を見極め、少女が声をかけてくる。ペン先に集まっていた知覚が急に広がり、そばに少女がちょこんと座っていた。
「これ作りました。お腹すくかなと思って。気が向いたらどうぞ」
遠慮がちに、文机の端に皿が載せられる。拙い三角形のおにぎりがふたつ。
温かい心地がした。
「ありがと。後でもらうよ」
不安げな少女の顔がぱっと華やぐ。
「はい! ありがとうございます」
不意に、少女の頭を撫でてやりたいと思った。
手短な謝罪ではなく、夕方の出来事を真摯に謝って話し合いたい。心ない言葉を投げたこと、それ自体を取り消すことはできないが、この数日間の出来事で、俺がどれほど大事なことを思い出したか。
けれど俺は、そうしなかった。
伸ばしかけた手を握りしめ、開きかけた口を無言のうちに引き結ぶ。
代わりに原稿に向き直った。
「子どもは先に寝てろ」
「はーい」
珍しく素直に俺から離れていく。布団に入る気配がした。
これだけ言っておきたくなった。
「めちゃくちゃありがたい。本当、ありがとう」
「はい」
それきり俺たちは話さなかった。
夜の闇の中、ランプの明かりだけを頼りに、俺は書き続けた。久々にこんなに書いて、手首が重く詰まってくる。それでも、書き上げるまでは。最後の読点を打つまでは、手首を休ませる一瞬さえ惜しい。
ついに俺が万年筆を置いた時、世界は深い青から目を覚ました。雀のおしゃべりを聞くうちに、引き倒されそうな疲労と眠気が押し寄せてくる。それでも久々に味わう高揚感を、誰かと共有せずにはいられない。
「なあ、俺やったよ……」
振り返って、息を呑んだ。
そこには誰もいなかった。
朝に向かっていく部屋。誰も使った形跡のない布団。
「おい」
名前を呼ぼうとして、出てこない。思えば一度も彼女の名前を呼ばなかった。
同時に俺は、今日がこの原稿の〆切であることを思い出した。
無事に〆切を迎えたから、彼女は消えてしまったのだろうか。
どうして俺は撫でなかったんだろう。謝らなかったんだろう。
あれはきっと、過去の俺だったのに。
それとも彼女は受けなかった謝罪より、書き上げた原稿を喜んでくれるのかな。
きっとそうかもしれない。思うと心が安らいだ。
スマホを手に取り、担当編集者にかける。
「まだページに余裕はありますか」
「久しぶりですね。何ていう題なんです?」
「『〆切がやってくる』っていうんですけど」
電話を終えて満ち足りた息をつく。拙いおにぎりを一口かじった。
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