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大批判されてる最新iPadのCMを観てきた

Twitterをスクロールしていたら、新型iPadとApple社を批判するツイートがたくさん流れてくる。(僕はまだTwitter派だ)

えっ、こないだMacbook proを買ってうきうきしているところなのに。
まさか大好きなApple社が批判されるようなことをするなんて。
ジョブズがいないとやっぱりあれなんだろうか……などと安直な懐古主義に陥りながらも、とりあえずどんな映像が批判を浴びているのか自分の目で確かめなければならないと思い、Youtubeを開いた。

タイムラインで垣間見た「あのプレス機」が画面の中に現れた。


Appleはきっと「こんなにたくさんのものが、こんなに薄い機器ひとつで」というメッセージを伝えたかったのだろう。と僕は推察する。

だが僕は同時にあのCM映像から、文字通りの「破壊」も読み取った。


かつて絵を描く人たちの技能の巧拙を計るスキルとして「広い範囲をベタ塗りするうまさ」みたいなものがあったと聞いたことがある。
筆を使って、広い面を同じ色で塗りつぶすのは難しい技術を要するものなのだ。

ところがお絵描きソフトの登場によって、それはクリックひとつで済むアクションになった。

これは「技術の廃れ」とも取れるだろうし「絵描きの裾野を広げた」ととることもできるだろう。


あのiPadも同じだ。

楽器、歌、ゲーム、おもちゃ、そのほかありとあらゆるもの……
それらがあの薄い機器1枚で済むようになるということはつまり、あの機器1枚に収まるとされるツールたちを作るひとたちの技術と生活を、仕事を奪うことによって映像通り「破壊する」可能性を孕んでいる。
そんなふうに僕はあの映像を受け取った。特に楽器が破壊されていく、軋むような音が心と耳に残ってとても痛かった。

楽器には「うまく音を出す」以外にも「心を込めて手入れし、長く使う」とか、「練習して技術が上がった時のうれしさ」とか……薄い機械ひとつには収めることのできない、楽器がそれ固有の形をしていることによって得られる楽しみもあると思う。

iPadでは簡単に「うまく音を出す」ことは可能だろうが、「楽器」という個別の形があるゆえに起きる営みは剥ぎ落とされている。

これは社会が人間に求めるスキルばかりが跳ね上がり、ついていけない人たちが弾き出されていく構造に似ている気がする。
人間は効率よく動くためだけに生きているのではない、むしろ人間の文化を育んできたのは、ぼんやり星空を見上げられる暇な時間であるのではないか。前に別の記事に書いたけれど。


iPadはクリエイターの裾野を広げる可能性を秘めているという面で、人類の文化の発展に貢献してきたかもしれない。これからもする余地はあるだろう。

だが行き過ぎれば、行き過ぎた効率追求型の社会と同じように、大切な何かを置いてきぼりにする危険性もある。今回、Appleはその一線を越えたのではないか。


やっと手に入れたMacbook proは僕の長年の憧れだった。Appleは、ジョブズは、トイ・ストーリーは、僕の憧れだった。
Macbookの便利さに触れてしまった今、もはや他のデバイスに戻れるのだろうか……と思うほど気に入ってしまっている。

Appleには、ユーザーが堂々と憧れられる姿であり続けてほしい。

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