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「受け入れられないことへの恐れ」を「めんどくささ」にすりかえてはいないか

こんな感じのツイートを見た。


特別支援教育について情報発信されている方のツイート。
その方が勤務する学校には、あいさつすると微笑みと会釈を返してくれる子がいるそう。
その子は友だちとははきはきおしゃべりするそうだ。
なぜあいさつには言葉で返さないのかと、ツイ主さんが興味を持って尋ねると、「話すのがめんどくさいから」と言われたそうだ。

ツイ主さんは決して否定的なニュアンスではなく、話すことを面倒に感じる価値観を興味深いと思っている雰囲気だった。


このツイートを読んだ僕は救われた。
ずっと昔。返事するのが面倒だった自分を肯定してもらえた気がした。

声を出すのを「めんどくさい」と思っても良いのか。


確かに「おはようございます」に対して「おはようございます」と返せるようになるのが、社会的動物としての人間のゴールかもしれない。

だが仮に言葉を発さなくても、かけられた挨拶を好意的に受け取っていますよ、と表明することは充分可能である。
ツイートにあった子のように、人間には笑顔と会釈ができるからだ。

僕はツイートに励まされ、楽しくもなってきて、僕の生活を「めんどくさいけど話していること、削っても差し支えなさそうなものは何か」という視点で見てみることにした。


実は家族と話すことを、めんどくさく感じる時がある。

自分が体験したできごとを、相手に伝わりやすいように順序立て、どういう切り出しで話しはじめようか……。話す前にたくさん考え、組み立ててから口を開くことの手順の多さ。

かといって僕は気の向いたままに喋ることがとても難しい。

僕は話題を選別し、「これは話の組み立てがめんどくさい気がするから話さないでみよう」など個人的な実験をした。


2日で気づいた。

僕が抱くこれは「めんどくささ」ではない。


話題を選別した2日間、僕の中には「話したいけど『めんどくさい』こと」がいくつも溜まっていった。
考えや価値観、感じたことを共有できないのはストレスだった。
たとえ実際の会話が僕の中で組み立てたようには進まないとしても。
(相手が僕の想定した通りの相槌を返すとは限らない、話題が予想外の方向へ転がっていかない保証はない)

その結果気づいた。

僕は話すことを面倒に感じるところをもう過ぎている。
今僕が「話さなくていいか」と思うのは、僕の発する話題が、考えが、感じ方が、受け容れて欲しい相手に受け入れられない可能性が怖いからだ。

予想外の怒られがぶつかってきたり、頑張って話しているのにお愛想笑いで済まされたりするストレスに、もう耐えられる自信がない。

そもそも僕が話の順序を組み立てシミュレーションを繰り返してから話すようになったのは、長々した話に付き合ってくれなさそうだった親に要点と面白さを効率よく伝えようとするためではなかったか。

もちろん、人に何かを伝える上で、話の組み立てを考えたりすることは重要で必要なことだと思う。
誰もが自分の気が向いた通りに、順序や伝わりやすさを考えず話したら、特にビジネスの場などでは今ある効率性が失われてしまいそうだ。日本の会議がますます長引くだろう。

だがプライベートな空間である家はビジネスの現場ではないはずである。僕は言葉を発する前に常に気を回す癖をつけてしまったようだ。


順序と伝わりやすさを常に気にして喋るのは大変だ。
はっきり言ってめんどくさい。

でも手間を嫌って自分の考えたことを聞いて欲しい人に伝えられないのもまたストレスが溜まる。

さらに言えば「じゃあ何も考えず喋ろう」というのも、普段自分がやらないことを試みるという点で気力を消費するので、めんどくさい。

幸い、最も親しい友人は割合辛抱強く僕の話を聞いてくれる。
僕が「受け入れられない恐怖」を感じる必要はぐっと減った。

友人はむしろ適宜補足を入れつつも気の向いたまま喋っていそうなので、僕のお手本とも言えるかもしれない。

もっと身軽に、気楽に、話ができるようになればいいなと思った。



直也

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