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自閉スペクトラム症(発達障害)と診断されました

数ヶ月前。精神科を受診し「自閉スペクトラム症(ASD)」と診断された。

診断されての心境やこれまでのこと、今感じていることを綴る。



※以下に綴ることは、あくまで僕たちが受けた診断、僕たちが個人的に趣味として集めてきた知識、僕たちが考えていることに過ぎない。
他者の参考になることはあるかもしれないが、正式な診断や助言の代わりにするのはおすすめしない。
必要ならばしかるべき医療機関やカウンセリングを受診し、読者諸氏に合った支援を模索されることをおすすめする。


「ASD」とは

ASDとは「Autism Spectrum Disoder」の略称で、日本語に訳すと「自閉スペクトラム症」。
発達障害の一種である。

「スペクトラム」という名前も示す通り、現れる特性や困りごとは一様ではない。むしろ完全に重なる人の方が少ないのかもしれない。

知的障害を伴う/伴わない/特性が強い/それほどない など、様々な表れ方が「自閉スペクトラム症」と総称されている。

別の診断基準では「アスペルガー症候群」とか「高機能自閉症」と呼ばれたりすることもあるが、日本で広く採用されているアメリカの診断基準「DSM-5」では「自閉スペクトラム症」が正式であるようだ。


発達障害は他に「ADHD」と「LD(学習障害)」と呼ばれるものの計3種があり、この3つも併発する可能性がある。

かくいう僕自身も、診断名こそASDのみであるが、「これってADHDでは……?」と感じる特性もあることに気づいている。
きっと「ASD強めな発達障害人」なのだろう。(これは正式な診断名ではない)

断れなさ過ぎて「ヤバい」と思った

次に受診の理由。

断ること、あまり話したくないことをはぐらかすことが苦手すぎて「これはヤバい」と感じたからだ。

僕は実際に目を通したことはないのだが、いくつかの精神疾患、そして発達障害の診断基準の項目の中には、それらの特性や症状で「日常生活に支障を来たしていること」というのがあるらしい。

つまり「私は発達障害なんじゃないか」
と感じても、環境調整が上手く行っていたり、自分で困難さを感じていなければ、診断に至らない可能性があるというわけだ。(僕は医師ではないので、実際の運用のされ方に通じているわけではない)

実はもともと、これまで趣味で蒐集してきた知識を総合し「僕たちも発達障害だろうな。ASDかな」と感じてはいた。
だが前述の通り、これまでは困っている感覚が薄かったことにより、診断してもらえなさそうなので受診はしていなかったというわけだ。

しかしとある出来事が起こって自分がいかに断れないかを痛感し、「これはマズい。SST(ソーシャルスキルトレーニング)か何かを受けて、もう困らないようにしたい」と強く思った。

それで受診した結果、いよいよ正式に診断がついたわけである。


最初に「自分も発達障害なんじゃないか」と感じはじめたのがいつだったのか、もう正確には思い出せない。

主が高校3年生くらいの時に育児系の本を読みはじめ、そこから興味関心が広がって育児→発達支援→療育→大人の発達障害と読むジャンルが移り変わっていったことは記憶している。

ちなみに大人の発達障害に関する本で最初に読んだのは、借金玉さんの『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』(KADOKAWA)という本だった。

別の興味関心路線で、一流の仕事術→ライフハック→大人の発達障害が伸びていたこともあり、2つの興味が繋がった形だ。

借金玉さんの文章はおもしろいし、当時の自分としても「当てはまるな」と感じるところ、参考になったことが多いにあり「僕も発達障害かもしれない」と気づく大きなきっかけになったと思う。

その後は直(5~7歳のパーツ)の存在に気づいたこともあり、育て直しのつもりで療育系の本ばかり読んでいた。

インテリアも好きなので本のチョイスが環境調整アイデアを探求する方面に向かい、ソーシャルスキルの練習等はあまり重視していなかった。

結果、家を暮らしやすい環境にすることには成功したが、「断れない」ことで自分の限界にぶつかったのだと思う。
そもそも人と話す、頼む、断る等は、本で、ひとりで練習するには限界があるため、人との交流で困難さを感じた時点で、SSTにいつか繋がる必要はあっただろう。

ASDと解離の関係

受診の際、内在性解離があること、11人のパーツたちのことも初めて正直に話をした。

すると医師から「ASDの人は解離しやすいと言われていてね」と驚きの一言が。
予想も期待もしていなかったのだが、解離の理由にも説明がついた瞬間だった。

これは医師の言葉を受けた自己分析だが。
僕はよく取り沙汰される「暴れる、叫ぶ、他害/自傷する」タイプのパニックではなく、全身が硬直したり無言になったりする「フリーズ」タイプのパニックを起こしていることが多いので、ストレスを内に抱え込みやすかったのではないかと考えている。

ストレスに対する反応が「抱え込む」「自己批判で良くなっていこうとする」「自己批判と反すう思考によるストレスの増加・繰り返し」だったため、それに対処しようとした結果、解離が発生していったのではないだろうか。

診察を受けるのは亜麻ああさの担当だが、話を聞いた亜麻は医師の言葉にいたく納得していた。

また、受け取った診断書に、主な病名として「自閉スペクトラム症」、副次的な症状として「解離」と記されており、僕たちは医師によってその存在を認めてもらえたと捉えている。

自己診断での存在感と、他者、それも資格のある他者から存在を承認されたことの差は大きい。診断書を受けとった日は、気を良くしておいしいケーキを買って帰った。

診断後の僕たちとこれから

診断を受けてから、改めて借金玉さんの本を読み直し、加えて「自分ごと」として発達障害に関する情報を改めて集めていた。

結果「あれも、これも、特性だったのか」という気づきや自分で自分にできる支援、幼い頃に必要だった気がする接し方など、新たな知識が集まった。


同時に、今の僕たちはちょっとポンコツになってもいる。

ある集まりの集合時間に遅刻した。生まれて初めての明らかな遅刻だった。
小さな物忘れが増えている。次に何をしようとしていたか。
感覚過敏がひどい。外に出る時は目を守るためにサングラスを常用している。
机の端にどうしてもモノを積んでしまう。(出しっぱなし)

などなど、我ながら「発達障害らしいなぁ」と思う特性が湧いて出てきている。

これは情報の影響を受けやすい僕が発達障害っぽさに寄っている……というよりは、これまで気を張り詰めて頑張ってきたものが一度緩んでいるがゆえに起きていることと捉えている。

これまでは診断も支援もなく、知識を集めて自力で対処してきたことになる。
だが「断れない」ということがネックとなり、自力での対処では特性をカバーしきれなくなってきた。
逆に言えばそれは、他にもたくさんあった特性を、多大なる努力で覆い隠してきたことになると考える。

つまり「擬態」。意識と筋肉を張り詰めて、常にがんばり続けてきたようなイメージだ。


それが診断がついたことで、いちど脱力したのではないか。

ここからは、無理をしすぎない、ちょうどよいがんばりのバランスを見つけていく段階に入ったと捉えている。

これまでは頑張りすぎていた。
従来の方法を続けていくと、きっと未来のどこかの時点でもっとダメージの大きい二次障害(うつをはじめとする精神疾患)を背負うことになっただろう。

だからここで一度力を抜き、力を入れてがんばるところと、抜いて「まあ、しょうがないか」とゆるむところを見極める必要があると思う。
見極めが上手くいけば、ずいぶん暮らしやすくなるに違いない。

……とはいえそこにたどりつくまでに通過中の、「一時的にポンコツになる」この段階が地味にショックでもあるのだけれど。

僕たちはそこそこできる方だと思いこんでいたので、ショックなのだ。
比べるのは失礼かもしれないが、「老いる」とはこういうショックを積み重ねていくことなのかなと思ったりする。

とはいえ、「できる方」のままがんばり続けていくことにも無理がある。
ちょうどいいバランスが早く見つかるよう祈ってやっていくしかない。


発達障害という診断は僕のありとあらゆる要素を説明してくれているが、「ASDのJessie -ジェシー- さん」と見なされるのは本意ではない。

あくまで僕たちが先に立つのであって、後に続いてASDがあるのだと思っている。

発達障害は社会との兼ね合いで「特性」が「困りごと」になると考える。
社会に合理的配慮が浸透し、困りごとが少なくなっていったら。
近い、あるいは遠い未来に、「発達障害」という病名はなくなるかもしれない。

今回の受診で、僕たちの抱えてきた特性には「発達障害」という名前がついた。

だが診断の前と後で、僕たちが変化したことは何もない。

僕たちは相変わらず寝て起きて、ルーティン化した献立の朝食を食べ、文章を書いて生きている。


世界にたくさんいるASDの人々のうちの、ほんのひとり。誰とも重ならない特性を持つ人のひとり。

だから僕たちはこれからも書き続ける。
ASDという診断は、生きやすさのヒントを増やしてくれただけのことだ。



補足:

診断の後、良書に出会う機会があったので併せて紹介しておく。

自身も成人後に診断を受けたという著者によれば、数々の研究から、「ASDの女性は一般に知られているのとは別の特性を現すことが多い」そうだ。

現状の診断テストの設問や項目は男性ASDの特性をもとに作られているため、女性のASDが見逃されたり、診断がつかないまま困りごとだけを抱えてしまうことがあるのだという。

ちょうど最近、「ASDを持つ人に男女比の違いはない(1:1)である」という新たな発見もなされたようだし、療育や支援のアイデアが充実しつつある今の世代の子どもたちも、急速に大人になっていく。

「大人の発達障害」とは、診断されなかった者たちの困難であると同時に、子どもたちがこれから直面する未知に近い領域であると認識を新たにすることになった。

「自分もASDかもしれない」「ASDの娘/姪/身近な女性がいる」と言う人は、上の本をご一読することをおすすめする。



ここまで長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。




文責:直也

サムネイルの画像はPixabayからお借りしています。

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